新神話 第一章


第一章 大震災の神話 (旧作「やまんばの歌」)


謎のホームレス

ホームレスというと、どこか神秘的である。私たちは決してそのようになりたいとは思わないし、近くにいられると困ってしまうことだってある。
何せ、私たちの生活の尺度とは異なる世界の人たちと思うからだ。
しかし、私たちが同じ価値を持つものどうし集団を作るように、彼らの間でも、たとえば愛隣地区のように集団を作っている場合、ああ彼らは彼らなりの信念や掟を持っていて、異質だが一つの社会を築いていると思うことができて、一種の安堵感が生ずるのである。
ところが、まったくの一匹オオカミのように、しかもある一定の地域のみを一定の法則があるかのように徘徊しているホームレスは、とりわけ謎めいている。
小菅洋一は、そういうタイプのホームレスの謎の部分にどうやら牽かれてしまったようである。
今回のホームレスは男性で、やや小柄だが中肉中背、髪の毛はざんぎりだがぼうぼうというわけではなく、眉は濃く、もしきちんとすればけっこう男前ではなかっただろうか。
だが、風呂などにここ何年も入ったことのないような黒っぽく赤茶けた風貌は、いかにもその道一筋という感があった。
しかし、洋一は人情家であって、こうした階層の人にも公平な目を向けることができたから、彼の居住区において、非常に長い間、
・・・そう、彼がこの異様な存在を初めて見て、初めて違和感を感じてこの方、すでに二十年は経っていただろうか、・・・
同じ地域をまるで一定の法則でもあるかのように徘徊していた忍耐強い人物に、えもいわれぬ畏敬の念を持ってしまったのである。
洋一が、何かの拍子に出くわしても、この男は素知らぬ顔で黙々とふらつくように歩いており、洋一もあえて見ぬようにして行き違うも、しばらく奇妙な思いにとらわれるのだった。
この男がどこに住み、何を食べ、どんな生き方をしているのか、といった様々な疑問と憶測である。
ある冬の寒い日、夕方の暗くなろうとするころ、彼は仕事から帰って、近所の貸駐車場に車を置いて、家まで歩く道すがら、あの男が道ばたのコンクリートの縁石に腰かけているのを見た。
暗くてよくは分からなかったが、男は寒そうに体を震わせているようだった。
夕刻にしてこの寒さであれば、深夜、早朝には行き倒れ、凍死は間違いないかのように思われた。
そこで、彼は家に着くと、以前買ったには買ったが、キャンプしたときの二,三度しか使っていないネブクロを物置から引きずり出してきた。
そして、畳まれたすき間に、さも置き忘れたかのように、五百円玉と百円玉を何枚かずつ差し入れて、さっきのところへ引き返した。
二十分ほど経っていたものの、あの男は同じ場所に座っていた。
彼は、あたりに誰もいないのを確かめると、男の近くに歩み寄り、「これ使いな」と言って、ネブクロを手渡した。
男は何か、もごもごと声にならぬ声をもらしたが、洋一は長居無用と、ただちにとって返したのだった。
それから十日くらい後に、洋一はあの男がいつものコースを歩いているのを見た。
そこにはひとつの期待感があった。
あのネブクロを一つの家宝として、肩に背負っているに違いないという期待感だ。
ところが、男は風呂敷のようなものに包んだ小さな何かを持っているだけで、いつもの汚れた服を着てよろめき加減に歩いているだけであった。
<おかしいじゃないか。あんないいものを路上に置いたままだとしたら、きっと持っていかれてしまうぞ。いや待て・・もしかしたら・・
本当はどこかちゃんとしたところに住んでいたりしているんじゃないだろうな>
長い月日は、男を白髪混じりにさせていたし、当然ろくなものを食べていないのだろうという印象はあった。
<だが待てよ、もしかしたら乞食は三日やったらやめられぬというように、ずいぶん儲かっているのかも知れない。ぼくのように、表の顔しか見ないうすら馬鹿が、せっせと新品を貢いでいたりして。
それをどこか契約した質屋などに持っていき、お金に変えたら、段ボールなど一生懸命集めているよりよほど楽だし、よほど儲かるんじゃないかな。>
そのような勘ぐりが次々と沸いてきて、洋一はいやな気分になってくるのだった。
しかし、そのうち持ち前の諦観が出てきて、そんなことはどうでもいいじゃないか、なんせぼくはあのときあの場で必要なことをしたまでだと自分に言い聞かせて、ことは済むのだった。
それからというもの、間近で見ることもめっきり少なくなり、たとえ車中からふと見えたとしても、あいつはあいつといった感じで無視を決め込んだ。
それから、五,六年は経っただろうか。
彼はその頃、タクシーの運転手をしていた。
それにたまたまお客さんを乗せて目的地に向かっていたとき、N保険所の前のバス停のベンチに、一人腰かけているあの男を発見した。
見ると、男は南の空をじっと見つめて、うれしそうに笑っているではないか。
道路は混雑しながらも、やがて車は男のまん前を通る。
しかし、男は車を見ているわけではなく、視線は上空にそれていた。
だが正面から見る笑顔は、赤銅色に神々しく輝いて見えた。
そのとき、後ろに座っていたお客さんが、前の座席を抱えるようにせり出してきて、あの男をしげしげと見つめながら、洋一にこう言った。
「ああ、俺もあんな心境になってみたいもんや」と。
むろんお客さんにしてみれば、いましがたまで、難しい商売で大変なんだといった会話をしていた折りも折り、とっさに湧いた反語であったに違いないのだが、洋一はこのとき、言葉がストレートに飛び込んできて、もしかしたらこの男は聖者か修行者なのではないかと思えたのだった。
たとえば、インドの行者などだが、いかにも東洋風なので、仙人になるのを志して修行に出た「方士」というものかも知れないと思った。
そして心の中で、「方士さん」と呼んでみると、決してそうではなかったにせよ、してきたことが無駄ではない気がした。
方士には、秦の時代に始皇帝の命を受けて、不老長生の薬を求めて蓬莱島ならぬ日本に渡来した「徐福」が有名である。
彼らは、人並みならぬ鍛練と研究を積み重ねて、この世の限界を超越しようとしたものらしい。
そのいわれが、知ってこのかた二十年という歳月、毎度同じパターンの貧窮生活を繰り返している忍耐力のほどと、ぴったりくるような気がしたのである。
すると、またあの方士の生活が知りたい気持になってくるのであった。
やがて彼は、神戸市N区の古くなった自宅をそのままにして、山向こうの新興住宅街に移っていった。
小高い山々を切り開き、莫大な土砂を取り去って宅地化したところである。
そのときの土砂は海に運ばれ埋め立てに使われて、これまた広大な土地を生み出したのである。
わずか十年程度で、地形はずいぶん変貌したであろう。
どちらの土地も、これからの世代にはよくもてて、神戸という響きとあいまって、外からの人口の流入が盛んであった。
さて、そうしたとき、阪神大震災が起きたのである。

阪神大震災

最大震度7という未曾有の地震は、六甲山系の南に位置する旧扇状地の軟弱地盤を直撃し、中心街のビル群を破壊し、ビルがそうなら民家という民家も当然のように凪ぎ倒してしまった。
(実際はわずかな場所の違いで、明暗を分けていた。活断層の位置や、地盤の具合によった)
火災もほうぼうで起こり、洋一の旧宅の近くでも火の手が上がっていた。
洋一の山向こうの新居も、かなりの揺れであった。
しかし、家具で倒れたものもなく、被害といえば書棚の上の額が床に落ちて、ガラスが飛び散ったくらいであった。
それでも、おおかた昼前まで停電となり、ラジオがその間、神戸の被害の程度を、どんどん規模を膨らませながら報じていた。
そして電気がつき、テレビがオンして初めて、事の重大さが目に見えて分かったのだった。
洋一には妹がいて、やはりN区に単身でマンション住まいしていたが、安否を気遣うも、電話などかかるわけがない。装置の故障が直った後は、回線がパンクしてしまったのだ。
テレビを見入る洋一には、妹のマンションが煙に包まれているかのように思えて、何とか助けにいこうと考えた。
道路は、救出にかけつけようとする車と、逃げだそうとする車であふれかえり、信号は機能しなかったから、交通は完全に麻痺してしまっていた。
ラジオで交通状況を知った洋一は、午後一番に車のトランクに自転車を積んで出発。このあたりで限界かと思われるところまで行って車を残し、車道を自転車で駈け下っていった。
見ると、下のほうでは、もうもうと黒煙が上がっており、歩道にはその有様を見ながら進む人の行列が右往左往していた。
彼は途中、消防車が渋滞に巻き込まれて身動きできなくなっているのを、何台も目撃した。
燃え落ちた民家の瓦礫の間からくすぶった煙が立ち上り、なすすべもなく炎が見え隠れしていた。
車道には瓦礫がいたるところはみ出しており、パンクせぬように気をつけながら、乗ってこぎ、降りて引きを繰り返しながら進んだ。
ようやくマンションに到着し、その巨大な建物が表むき何ともないのを見た。
火災も遠い。
良かったと思い、中に踏み込めば、階段が崩れ落ちていた。
別の階段を使って10階に上がるうちに、何組かの家族の降りてくるのに出会ったが、無表情で比較的事もなげな様子であった。
だがそれは、茫然自失の状態だったのかも知れなかった。
10階。エレベーターが使えれば楽なのに、これは大変だったろう。
洋一がその後、荷物整理で何往復もしたときには、廊下でしばらくぶっ倒れていなくてはならないほど、過酷であった。
それが15階もあれば、より上の住民の苦労はいかばかりだったろうか。
エレベーターはその後9ヶ月の長きに渡って、使い物にならなかったらしい。
洋一の妹は無事だった。
ただしセパレート式たんすの上が落ちて、額にその角が当たって、少し血を流していた。
あと1センチでもこめかみの側にずれていたら、大変だったところである。
部屋の中は、まともに立っている家具がないほどで、ほとんど壊れており、壁には暴れまくった家具の無残な爪跡がいくつも残されていた。
とりあえず、妹だけは無事だった。
そこで彼はもう一つ、絶望的だろうが、旧宅がどうなっているか見てこようと思い、妹に少し見てくるから待っておれと言って、自転車を置いたまま、歩いて出かけた。
洋一の旧宅もそうだったが、N区のこのあたりは古い小さな連棟式の民家が密集していて、八割がたが将棋倒しの格好で全壊していた。
電柱はすべて斜めに倒れ、ちぎれた電線が無残に垂れ下がっていた。
瓦礫また瓦礫。
むろんその下には、未だ助け出されずにいる生存者も、すでに圧死した人もたくさんいたのである。
それはさながら空襲直後か、市街戦の激戦地跡のようで、どこを見回しても元の形をとどめているものは見当たらなかった。
(後に、空襲以上にひどいものだったと、年輩の両経験者は比較して語っている)
メインであるはずの8メートル道路ですらも、両側からつぶれた家屋がはみ出して積み重なっている箇所がたくさんあり、それを越えていくのに、いちいち足場を確かめなくてはならなかった。
彼は、累々と道路をふさぐ家屋を、他の人がうまく乗り越えるのを確かめながら、後に続いていった。
ふとそのとき、周りを見回す視野の隅っこで、妙なものを捉えた。
あのホームレスの男が、倒壊家屋の陰に見え隠れしながらひとつ隔てた道路を歩いているのを見たたような気がしたのだ。
おやっと思い、どうせのことだから確かめてみようと、向こうの道まで足下に注意しながら出ると、そこには似ても似つかぬ別人が歩いているだけであった。
そのとき、元の道の方で、「バリッ」という音と同時に、「あたーっ」という男性のかん高い声が聞こえてきた。
何事かと戻ってみると、先ほど越そうとしていた瓦礫に、中年男性が落ち込んでおり、それを連れらしい男性が抱え上げていた。
「足をやられた」
見ると、がっちりしているように見えた横倒しの壁が、人の体重を支えきれずにつぶれ落ち、穴にはまった男性の右足には、靴を通して、板付きの五寸釘が甲を貫通してくっついていた。
やがてどこからともなく、人が集まってきて、ああだこうだと意見が飛び交う中で、応急の抜き取り作業が行われた。
大変なことだと思いながらも、洋一は先を急がねばと、別の迂回路に向かった。
あのとき、あの男が見えなかったら、きっと自分がああなっていたかも知れない。
感謝とも不思議ともつかぬ思いを抱きながら歩いた。
彼は通れる道を選び選びしてようやく旧宅の前に着いて、二階建ての一階部分がほとんどなくなっている無惨な光景を見た。
もし、未だここに住んでいたなら、下にいたはずの親は亡くなり、二階にいた自分の身もどうなっていたか分からないと思った。
このとき、真向かいの家では、Sさんのおばあさんが下敷きになって亡くなっていたとは、テレビ報道の死亡者リストを見るまで知る由もなかった。
惨状を後に、兄弟二人はそれぞれの自転車で遠い坂道を引いて上り、暗くなってようやく車にたどり着いて、ほっとしたのであった。
さて、それからが大変であったろう。
洋一は、多くの運転手が収入にならないなどのいろんな理由でやめていく中で、がんばったのである。
自宅に被害がなかったために、それができたのだが、瓦礫と大渋滞の中での仕事は過酷を極めた。それでも旧宅の損害だけですんで、他の人と比較するとはるかにましであることに、幸運であったと思うのであった。
彼はその後、幸運への少しもの感謝として、仕事に出たついでに、かつて近所であった人たちが身を寄せる彼の母校のH小学校に、水や乾パンを差し入れた。
その学校は、この国のM首相が唯一立ち寄った避難所として有名になった。
多くの救援物資が続々と送られてきていた。
水と食料はじめ、毛布布団や衣類などに至るまで、当初は別としても不足することはなかっただろう。
これらすべて、日本国中の心ある人々の温情のたまものであった。
それを可能にした、この国と国民性の偉大さ。そう、洋一は思った。
全国から警官が大量に応援に来た。
彼らは機動車に寝泊まりしながら、主に交通整理に当たっていた。
排気ガスとアスベスト粉塵の中の獅子奮迅ぶりであった。
大きな道路の主要な交差点という交差点に、1人以上が配置され、当初は救援と緊急物資輸送の車だけを通し、やや後には復興車両や代替バスなどを専用に通すようにしたのである。
(そういうわけで洋一も大変だったし、職業運転手なりの要領の良さが要求されたのである)
また、犯罪防止のための巡回も盛んに行われた。
つぶれて無防備になった家屋には、どんな私財が埋もれているや知れず、それを狙う略奪を防止し、あるいはまだ搬出できるかも知れぬ私財を焼き尽くす放火を防止するためであった。
その一環で、たぶん市民が自暴自棄になって起こす騒動などに備える意味もあったのである。
だが、市民がそうした短絡的な行動に出ることはそれほどなかった。
必ずしも警官が見張っていたからではない。
全国から集まったボランティアの人たちが、被災民の末端にまで行き渡って、崩れ落ちそうになる人々の心を励まし支えていたことが大きかったのである。
ボランティアには、医療の専門家もたくさん来ていたが、一般人の多くは比較的自由な時間のとれる活力のある若い人たちだった。
中年以降の市民達は、よもや若者たちがここまでやるとは思ってもみず、考えを改めさせられたと誰しも話し合った。
末端の問題を行政に反映する事までは困難であったろうが、適時の情報を取ってくるための伝令や、よりよいシステムを工夫し運用するなど、被災者の立場に立った素晴らしい連携システムがそこに存在していた。
国や行政が不得意とするところを、すべてカバーしていたと言っても良いだろう。
しかし、この地の行政に限っては、難しい問題の数々を抱えて、連日連夜の奮闘努力をしていたのであった。
市民は市民で、降ってわいたような学校での集団被災生活を余儀なくされ、なじめない人がたくさんいたが、互いに助け合って絆を深めていた。
そこにまた、普段つっこまれ役の先生方が、生徒たちの学業を見た後は、昼に夜を接いで指導力を発揮し、避難生活者の面倒を見ていた。
復興と救済という理念のために、全体が一丸となって進んでいたのである。
そこでは正義感、責任感、利他主義、思いやりといった美徳が支配的であった。それゆえ、美談もあちこちで生まれたことだろう。
ボランティアの無私の努力を目の前にして、誰が抗えようか。
互いに励まし合う関係の中で、誰が非行を起こし得ようか。
一年、二年が経ち、彼らが撤退していった後に、心の空洞を覚えた人が多くいてか、あるいは先行きの見通しをなくしてか、酒乱者や孤独死が仮設住宅であい継ぎ、騒ぎとなったが・・。
このときボランティアで長きに渡って苦労した人たちは、感謝状一つ受けることなく、地元に戻っていった。
だが、少なくとも阪神の被災者たちは、彼らの将来に心からエールと無形の勲章を贈ったであろう。
彼らに、この経験で培われた本物の政治や行政というものを担ってくれることを、期待してやまなかったはずである。
さて話を戻し、その後、洋一は半年、一年と、旧宅の解体撤去やら事務手続きやらで仕事とは別にてんやわんやのありさまであった。
そしてようやく気持ちが落ち着いたのが、二年目になってからであった。
気がついてみれば、直接的な被害に遭わなかったにせよ、体じゅうにガタを覚えていた。
そして、あのとき助けてくれたのかも知れないホームレスの男が、今どうしているかについて考えが及ぶまでには、さらに半年が必要だった。

ホームレスの男現る

彼はやはり神戸市内で車を走らせていた。市内一円に行くことがしばしばだったが、一度も男の姿を見かけることはなかった。
また妙な考えが浮かんでは消えた。
仮説住宅に入って、普通の人と肩をならべて食事をもらい、以前より良い環境で寝起きしているのだろうかとか、飯のねたがなくなって、実家にでも帰ったのだろうかとか、もしかしたらすでに死んだのかも知れない、とか。
休みの日に、あのあたりを歩いてみようと考えた。
町は未だ元に戻ったわけではないが、販売店の数も徐々に増えており、一つは買い物に、もう一つは、あのホームレスの探索という目的で非番の日、いたるところ更地になった旧宅周辺を歩いてみた。
だが男はいなかった。
あのネブクロを手渡したあたりは更地が続いているばかりであった。
ぐるっとひと回りするように、ほとんど更地になったケミカル靴の工場地帯を歩いてみたが、やはりいる気配はない。
ところが、買い物にとりかかろうかとN駅の地下道の入り口にいたったそのときだ。
地下道の暗がりの中から、突然あの男が顔をのぞかせたのだ。
しかも、あろうことか、洋一の顔をまともに見ているのである。
お互い見て見ぬ、知らんふり状態だったのに、このときはまったく違っていた。
そして、またあろうことか、男はよどみない普通の言葉で語りかけてきた。
「こっちにくるか」と。
彼は、ことの成り行きのあまりもの意外性に、驚きを通り越して、茫然自失してしまった。
素直に頷いて、後に従った。
地下道は、薄暗く、長く続いているようだった。
「わしはこの奥にいて、気が向いたら表を歩くようにしてきた。
そういう暮らしをしてもうどれほど経ったか分からない」
「あなたは方士?・・いや、修行者ですか?」
「そんなもんじゃない。ただのルンペンだ」
そうした会話を交わすうちに、向こうの出口が見えてきた。
彼は人ごみの中に出てまで、ともに話しながら歩く気にはなれなかった。
だが、出たとたんに驚いた。
<こんなところに>
そこはたいして大きくはないが、ほかに誰一人いない草原だった。
町はどこかと、後ろの眼下を見れば、それらしい景色がスモッグに霞んで見えた。
山のほうが近くに見えるので、地下道をそうとう歩いてきたものらしい。
上気しながら歩いたから、時間の経つのを忘れた感もあって、それもいたしかたないかと洋一には思えた。
「この山を見てみなさい」
どこかで見たような山だ。
これは形からいって、何山だったかな、と考えようとする前に、男が言った。
「この山の樹木は、8割が病気で、そのうち3割はすでに死んでいる。
全山枯れ山水になるのはあと五年というところかな」
確かに、秋が深まっていたとはいえ、木々は紅葉しているのではなく、枯れ葉をつけているだけのようだった。
常緑樹の緑の色も、黒っぽく沈んでいた。
雲が出て日の光をさえぎっているせいではない。
見ると、男は山を見上げて、にこやかにしている。
その表情は、N保険所の前で見たのと同じだった。
そして、時折頷いている。
男には、まさに見えない何かが見えている感じだった。
ほどなく、男は彼のほうに向き直った。
「大丈夫だ。山は問題ない。山には山姥(やまんば)さんがいて、ちゃんと守ってくれているからな」
「山姥さん?」と、山の方を見ると、その瞬間、山の緑のトーンが明るいものに変わった。
鳥たちの声もにぎやかになったようだった。それは顕著だった。
さらに山を見ていると、なぜか心が和んでくるのを覚えた。
そして、心の底から嬉しくなってきた。
「山は生きかえったみたいです」
「山はずっと生きている。山姥さんと共に生きている。山は山姥さんの顔なんだ。山姥さんが笑えば、生き物はみな幸せだ。山姥さんがしょげれば、みな生気をなくす。泣いてしまえば、水が出る。怒れば、大嵐だ、山崩れだ」
洋一は、これはひょっとして催眠術にでもかけられているのではないかと思い、自分の頬を平手でたたいてみたが、痛かった。
「ぼくはどうなったんですか」
「何も心配することはない。変なところにきたわけではないし、夢幻の世界でもない。
ただ、ありのままが少し見えるようになったのかも知れないな。どれ、もとのところへ帰ろうか」
そう言って、またさっきの通路に入っていった。
洋一もそれに続いた。
「さっき、山姥さんと話をした。この青年に、山の神様の話をしてもいいだろうかと。
すると、いいと言われた」
「山の神様?いったいそれは何ですか?」
「すでに会ってきたじゃないか」
「え?でも分からなかった」
「そんなはずはない。ちゃんと君は見ていたし、山姥さんも君を見ていた。私には、君が気に入られていると思ったな」
「でも」
さっきの山の光景を思い浮かべてみても、何の姿らしい姿もなかったように思った。
「そのとき、どんな気分がした?」
「はじめ山を見たときは、気味が悪かったけど、色相が明るくなったんで気分良くなって、楽しくなりました」
そうしているうちに、地下道の入り口にたどり着いた。
洋一は、暗い中から明るいところに出て、まぶしさを感じたが、すぐに収まった。
男は、入り口横のビルとビルの間の一畳くらいのスペースに腰を下ろした。
洋一もそれに続いた。

山姥の歌

「山を見て、楽しくなったか。そうだろう。そうだろう。では、そのわけを話してやろう。これは山の神様と、娘さんの山姥さんにまつわる話だ」
地下道入り口横の一畳くらいのスペースは、歩道を歩く人には丸見えだった。
洋一は使い込んだジーンズ姿だったから、もしかして乞食がペアーで物乞いしていると思われかねないのが辛かった。
知り合いが通りかかりでもすればおお事だ。
だが、道行く人はまったく無関心だった。
これこそ我々一般人が彼らに対して日頃とっている態度なんだと思えたり、あるいは本当に見えていないのかも知れないと思ったり、複雑な思いが交錯した。
そのとき、不思議な芳香がしてきた。
お香の匂いというか、だがそれは隣に座っている男の体臭だった。
注意を向けると、男は笑顔で話し始めた。
「山を見て、楽しくなったか。そのわけを話してやろう。人が山を見て、心和むのは、知らないだろうけど、山姥(やまんば)さんが微笑んでいるからなのさ。
皺だらけの顔に、無骨な手、どっぷり太った大きなお腹。とりわけお乳は山の生き物たちにたっぷり飲ませようと、特別大きくていらっしゃる。
人は山を見ると、山姥さんの微笑みをじかに感じて、懐かしい気分になるんだ。
歩いて行っても、車で行っても、どこの山でも見上げれば、『おう、よう来たな。ゆっくりしておいき』と答えてくれる。
山姥さんは、今でこそ白髪のおばあさんだが、お若いころは、『岩長姫(いわながひめ)』
といって、はつらつとした働きもののお嬢さんだった。
日本中の山々に、増えよ育てよと木々をお植えなさったのは、この神様だ。
いつもすっぴん、化粧を知らず、顔はいつも土まみれ、手はひびと傷だらけ。
動物や昆虫、鳥類の神々が、一番頼りにされていて、この種族をどこにどの時間に、どう置くべきか、どんなもの食べさせようかと相談なさるが、いつも我がことのようだ。
この神様には妹がおありになって、妹神様はうってかわってお美しく、装いも色あでやか。どんな神々からもあこがれの的。
妹神様は、姉神様の育てた木々の上に、芭蕉扇で一掃き、二掃き、三掃きして、色鮮やかな花をお咲かせになる。四掃きめの雪の花だってあるんだぞ」
「一掃き毎が、春夏秋冬を表してるんですね」
「そのとおり。そして、生き物の種族の神々との全体会議の席に着かれれば、いつもリード役。
みんなうっとりしてしまうんだ。姉神様も、話がまとまりよくて、うれしそう。
みんな仲良く、助け合い。だけど、姉神様が一番働かれていたなあ。
地味で、忍耐強く、勤勉で、実直、こうした性格は、姉神様の特長だったろうか。
お父上である山神様は、姉神様のいずれのお嫁入りのことを考えて、『妹のように少しは装ったらどうか』とおさとしになるが、いっこう興味がないようす。
そうするうちに、妹神様に縁談が持ち込まれた。
今の世で一番力を持たれたお家柄の、世の中をにぎわしと繁栄で満たされるという、実力兼備のハンサムな男神様が、神々の社交パーティーの会場で、妹神様を一目見て気に入られたのだ。
このとき姉神様は、もちろんパーティーには出ておられず、せっせと野良仕事をされていた。
父神様は、考えがお古いかたで、姉より先に妹が嫁ぐというのは、いかにも順序違いで、姉神様をふびんに思われた。かといって、こたびの縁談お断りするには、立場が違いすぎる。
というのも、かつて世界を誰が治めていくかということで、神々の世界に、関ヶ原の合戦のようなことがあった。
東軍ならぬ『天軍』と、西軍ならぬ『国軍』が戦って、『天軍』が勝ったんだ。それは、圧倒的な『天軍』の勝利だった。
だが、人間のする戦さと違って、負けても神々は死ぬことがない。その後の平和な世の中で、『天』の神々は中央に出て政権をにない、『国軍』の神々は田舎でひっそりと暮らしていた。
そんなとき、降って湧いた話だった。
困った父神様は、考えぬかれた末、姉神様も共にもらっていただこうと腹を決められた。
恐る恐るであったが、父の威厳を込めて、そう申し出ると、男神様からは軽妙なご返事。
『おお、それはよい。予は何ら不足ないぞ』
『姉は献身的で働きものです。絶対にあなた様にご不自由をおかけすることはありません。ただ、重ね重ね申し上げますが、姉は不器量ですゆえ』
『重ねて言うではない。予はさほど狭量ではないぞ』
とはおっしゃったものの、すぐさま妹神様のもとへ行っておしゃべりされていて、それほど父神様の言葉に関心を示されておられぬようす。
父神様は、卑しくも神がする約束ゆえ、違えられることはあるまいと思うものの、新しい時代となって、『天』の神々とどうおつきあいすればよいかよくわかっていたわけではなく、不安であられた。
やがて婚礼のときとなった。にぎわいの男神様は、すでに妹神様とは深い恋に落ちておられた。
これも新しい時代の行動様式というべきか。
これ以上、婚儀など無用のものかと思われたが、儀礼を重んずるしきたりには古いも新しいも、神も人間も変わりはない。
男神様は、初めてまみえる姉神様について、妹神様に一度も聞くことなくこの時にいたり、ただ普通の恋が営めれば申し分なかろうの考えで臨まれた。
父神様は、この時ばかりは立派に装い、精一杯の化粧をして、せめて普通の娘と見られるようにして臨もうとする姉神様を伴って現われられた。
姉神様にとっても、幸せなときであられたに違いない。
だが、初めての対面の座で、微笑みのみられた男神様は、一目見てにわかに面を険しくし、父神にそっと耳うちされた。
『これが岩殿なるか』
『さようです』
『うーむ、どうしたものかの』
『お約束でござります』
『うむ、わかった。婚儀は婚儀じゃ』
こうして、婚儀が終わると男神様と姉妹神は連れだって、牛車に乗って、『天』の館に帰られたのであった。
見送る父神様は、あの先ほどのやりとりに、これで良かったのだろうか、本当に幸せになってくれるだろうかと、心痛められた。
父神様の心配どおり、男神様は、妹神様を自室に入れても、姉神様を控えの間に置いたまま。
普段のだんらんは妹神様と共にしても、姉神様はまるで下働きのよう。だが、姉神様は、不平を言わず、自分の得手とばかり働かれた。
当然、不得手な化粧などすることなしに、すっぴんのままとなる。
ある日、すっぴんの姉神様を見た男神様は、仰天してしまわれた。
そして怒り出され、『おのれ、予を騙したな』と、父神様を呼びつけ、『この姫は要らぬ。連れもどれ』と命じられた。
妹神様は、『それはあまりに姉様がかわいそう。私は姉様がいてこそ、きれいに装えるのです。何とかお考え直しくださいな』とおっしゃるも、男神様は、『そちは黙っておれ。予がもっと豪奢なもので装ってやるからに』との仰せ。
父神様が、『器量の点はお申しにならぬというお約束では』と言うと、男神様は、『婚儀で器量悪いを隠して目どおりするとは、ほかにも隠しごとがあるやに違いない。よもや予の寝首をかこうとは思っていまいが、いずれ偽り多き者。同じ屋根の下に棲むわけにはいくまい』とおっしゃる。
こうして、父神様と姉神様は、泣く泣く郷里の家路につかれたのだ。
『わしがおまえをふびんと思い、無理矢理嫁がせようとしたことが仇になってしまった。すまぬ岩よ』
『いいえ、私がいたらなかったのです』
『いやいや、わしが浅知恵だった』
のちほど、男神様の本家から使者が来て、いかなる理由でかかる不祥事にいたったかを問いただしてきた。
『本家では、どうして偽り者の姉神殿をよこそうとしたのか、真意が知りたいと申しております』
父神様は、恥ずかしさと怒りと確信を込めてこう申し上げられた。
『にぎわいのお殿様には、桜の木の花の咲くが如く、絢爛豪華な治世をしていただきたく妹神を、そのご治世が巌の如く苔生すまで盤石であられますよう姉神を、二人併せてお出ししようとしたのでございますが、お気に召さなかったようです。妹神のみでは、桜の花が咲いて直ちに散ってしまうような御代になられてしまいましょう』
これは人間の世界でも同じことだが、真っ正直な生きかたをする者が言う言葉は、正確無比なんじゃ。
それを知っておっしゃったわけではなかろうが、このお言葉は呪いとなって、男神様に降りかかっていったのだ。
むろん、姉神様は知る由もなく、一度嫁いだ身ゆえ、男神様を未だ夫として慕い続けておられた。
いずれ男神様が翻意なされて、再び呼び戻されることを期待なさっていたのであった。
だが、いつまでたってもそういうことはなかった。
深い嘆きは、年相応もなく、老けさせるものじゃ。
神の御歳八千才というのはまだお若い。
だが、すっかり白髪となられ、皺深くなられた。
そして、なおも意気消沈なされて、山の奥深くにこもられてしまわれた。
時折、ふもとの里に降りてきて、遊んでいかれる程度となってしまわれたのだ。
実は、わしはよく遊んでもろた里人の一人なんじゃ。
見てみい。むこう(六甲)の山々を。
色はどす黒く、そのいくぶんかはすでに死んでおる。
山肌は、姉神様のお肌そのものなんじゃ。
いっぽう、男神様のほうは、今を盛りの活躍ぶり。とったはつったのお忙しさ。だがやや過労ぎみ。
たまに腰痛起こして、困っておられる。
妹神様は、男神様のために今日もパーティー会場を彩ろうと、お肌の手入れに余念がない。
だが装いにはほころびが、花冠にも衰えが隠せない。
早い老いを起こされねばよいのだが。
山神様に、あのジンクスのことたずねてみれば、わしが言ったからじゃない、わしにはそう見えた気がしたから、使者にお伝えしたまでだとおっしゃる。
いつでも姉神を呼びに来て欲しい。
姉神はいつまでもお待ちしている。
お呼びがあれば姉神は喜んで、きっと若くはつらつとなるだろうし、夫を立てて山々を豊かにするだろう。
そうなればわしもまた大働きせねばな、なんせ愛しい娘たちのことじゃから、とおっしゃっていた。
そして、あらぬことか、久々に踊って見せてくださった。
そのときの歌はこうだった。
『左の峰には桜の木、右の峰には常盤木を、植えて常世の喜びを。巡らせてみたや、む
ら雲の、遠き蒼弓の果てまでも、大盤石の天地の輪・・・・・』
お歳を召した父神様は、ほころびの多い衣装着て、いたむ膝をかばいながら踊られた。
わしら里人は合いの手を打ってさし上げた。
右ひじに空いた大きなほころびは、さきごろ龍神様とやり合ったときにできたもの。
旗本である龍神様は、天地が暗く濁るのは、義理の息子のせいなると、諌め申せ、諫め申せの一点ばり。
はては、も一つ戦を構えぬかとまで言い放ち、まあもう少し我慢せよとの父神様に食ってかかって、思いあまって猛火を吐いたがこの始末。
龍神様の言うのも無理はない。
昼はもうもうたる臭煙に悩まされ、天地には見えぬ騒音がこだましておるから、夜も眠れんのだそうな。
私はこのとき、ゴミ箱に捨ててあった新聞を見て、どこかの国で深刻な山火事が起きていることを知った。
左ひじのかぎ裂きは、魚の神の竜宮に住む乙姫様が、やはり山神様に、海が汚れて大変なの何とかしてよ、と袖を掴んだは良いが力あまって、爪が剥き出てできたもの。
なんせ、龍族統ずるシャカラ龍王様のご令嬢じゃから。
このときは、どこぞの国で、大地震が起きたとか。
左膝の袴にできたほころびは、さきごろ転んだときにできたもの。
いつも歩いた山々の折りなす石畳、慣れたいつもの足運び。
だが、飛び石の一つが欠けていた。
ひっくり返って、したたか膝を打ち、痛む足になられてしまった。
父神様の衣装のたくさんの傷跡は、いろんな問題の跡なのさ。
それもこれも、昔と違ってしまったことによる。
長い月日の中でなら、多少の変化は何でもないが・・。
だが、目まぐるしいものの続出に、ようついて行けんようになった。
神様がたとて同じことなんだ。
ニューエイジの『天』の神々は、早いし、さといし、なんでもやってしまう。
だが短気でけんかっ早いから、誰もよう諫められないでいる。
板挟みなのは、父神様だ。一人で、重荷を背負われている。
どう諫めたいたいかって?
ゆっくりやろうじゃないか、とか、一歩一歩考えてやろうとかいった大きな意見から、
臭いにおいを出さずにやれないか、とか、川をきれいにしてやってくれといった個別の意見まで、
単純なことながら種々様々だ。
それらをとりまとめて、何度か天の館に陳情に行かれたという。
ところが、門前に恐い顔して今にも破裂しそうな膨れ面した雷神様がいて、何かたて突こうと言うのか、とすごんでくるのだそうな。
とりつく島がなく、かといって努力しようとの回答が何回めかのときにあったため、じっと待つ以外に方法がなくなった。
だが、賢くさとい神様ゆえに、対策も早かろうとの思いは空振った。
『これも我らが弱いせいであろうかや』とお付きの者にぽつり。
『こうなれば、我らみなを生んでくださった親神様に事と次第をお話しし、調停していただくことにでもせねばやまりませぬ』との進言も。
『そうじゃ、そうじゃ』
そうした意見がみなの口からもれるほど、困り果てたかたが多くおられたのも確かじゃ。
だが、難しかろう。
というのは、女の親神様が、ニューエイジの神様がたの振る舞いすべてに、無条件の許可を与えておられたからだ。
なんせ、お孫さんに当たるから、それはもう、かわいい、かわいいのかわいがりよう。
『どんどん新しいものを学んでおゆき』と何でもオーケーなんだ。
していることに口だそうものなら、八つ裂きされても不思議でないほどのパワーのかただから。
そこで、男の親神様はどうかと見れば、世界の大枠を作られた疲れで、寝所にてお休みだった。
お起こしするにはしのびない。
かといって、手をこまねいてはおられない。
そこで山神様は、重い腰をあげられて、親神様の寝所に赴かれることになったのだ。
これは一大事とばかり、その他の山神、龍神、生き物の神様たちがその場所にわれもわれもと押しかけた。
とんだやじ馬だったかも知れん。
地方の守護がすっかり抜けてしまったからな。
どこもかしこも神無月。この事件の前後は、下界で凶事が蔓延だ。
さて、龍神様たちは飛ぶことができるため、父神様より先回りして飛んで行った。
その途中で、時折遊ぶ小高い山の上に、奇妙な二人の人間がいるのを見つけられた。
『あれ、何だ?』
『ああ。あれはキタロウとネアン。わしらの存在を記録しようとしてきているんじゃ。
ほら、あのおかしな箱のようなものがあるじゃろ。あれでな。
息子の小龍などは、わざわざ記録されに行っているらしい。人間の中にも、少しは理解者がいてもいいからな。
どれ、わしらも一つ記録されてみてやるか。記念すべき事がおきようとしてるんだから、記念写真としゃれ込もう』
そして、険しい山の間を、びゅーんとすり抜けて、曲芸飛行して写って見せた。
『ふう。どんなもんだ。まだまだ若い気分になれる』
『おやおや、玉龍のやつ、まだやろうとしてるぞ』
『いいじゃないか。おれたちもどうだ』
『もういいよ』
などという話しをしながら、あたりを飛んだり跳ねたりして、時間つぶしをしておられたのだった」
-------------------
「どういうことですか。意味がちょっと・・」
「なに。山の上の二人は、UFO撮影をしていたんだ。すっかりUFOだと信じ込んでな。確かに、そうに違いないもんな」
-------------------
「さてそのころ、山神様は公式の場に臨む晴着をびしっと決めて、どんな欠点も指摘されることのないよう姿勢をただし、いざ親神様の寝所へと赴こうとされていた。
たもとには、分厚い陳情書を入れて、もし話しだけでうまく行かぬようなら、それを親神様のもとに置いて行こうとの考えであられた。
山神様は、伊吹山の住処を出発なさったが、痛む左膝には、しっかりとさらし木綿が巻かれていたので、歩みはいっそう遅くなってしまわれた。
目指すは淡路の親神様の寝所。
かつて何度も通いなれた山々の石畳のおりなす道。
よもや年老いたとて、間違うはずのない行程だ。
若い頃なら、三日の道のり。
それを丸三ヶ月かけてようやく六甲の地へと至られたとき、右の足をいつもの山並みにかけようとなされたが、親指をかつて支えた山が消えていた。
わずかの事ながら、ご老体の身には、百倍にも当たったろうか。
おまけに陳情のことで頭がいっぱい。目もしょぼしょぼ。足下を確かめることも満足にされなかった。
山神様は足を掬われたようになり、前につんのめられたのだ。
どうっと倒れ行く先、両の手をつこうとした位置に、親神様の淡路の寝所のとばりがあったから、さあ大変。
ばさあっと大きな音がして、とばりが落ちて、ずでーんと地響きがしたものだから、さしもの熟睡の親神様も、すわ寝込みを襲われたかと、傍らの太刀をとって飛び起きられた。
『おのれ、何ものー』
『あいたたたーっ。もうしわけござりませぬ』
見れば、悲痛な顔をこちらに向けて、山神が横たわっているではないか。
『どうしたんじゃ』と、直ちに抱えあげて介抱なされた。
『ここで何をしておる』
『実は、かくかくしかじかで、まかり越したのでござります』
悲痛に満ちた声で、皆神の苦しいしだいを、横たわったまま逐一お話になられたのだった。
『さようか、我が居寝る間に、さようなことになっておったか。対処を考えねばのう』
山神様は、そのお言葉を聞き、年老いてぶざまな姿を見せることで、おとがめはおろか、
同情をもかち得ることができたことに、老体をおしてきた甲斐というものをつくづく感じられたのじゃと。
いつしか、くだんの姉神様もそばに来ていて、父神様の容態を気にかけておられるのだった。
親神様はそれを見て、『おまえもふびんなことだったのう』と仰せられ、それを聞いていた多くの取り巻きの神々の間から、同情のどよめきがおきたのだ。
『だが、喜ぶのは早い。よく見るがよい。山神のそそうは、現(うつ)しき青人草(あおひとくさ)に、はかり知れぬ悲しみを与えておる』との親神様の仰せ。
下界を見やれば、山神様の倒れられた跡が大地震で壊滅しておった。
『我が老身のなせるとがなり。かくなれば、我は不慮にみまかった魂を、ことごとに我が里に連れかえり、大切に守り育てましょう。岩よ、手伝うべし』
『心得ました』
『再びこの地に、かかる不幸は及ぼしませぬ』
こういうわけだから、このときこの地で亡くなった者で、化けて出た者はいなかろう?
龍神様たち取り巻きの神々も、『我らも手伝いまする』と声をそろえて申し出た。
そこで親神様は、こうおっしゃった。
『わしは、この地に、我が計画の基をおこう。あらゆるものが崩れ去った廃墟。
その中から燃え上がる新しい命の炎。新しい炎はそこから出て、全体に広がるのだ。
わしが、この場からすべてを監督いたす。そこは、山神はじめ神々と、現しき青人草が、痛みをわかち合った跡。皆神が協力し合うと約した跡だ。よってそこを、神の戸口と名付けよう』
『ふさわしかれ。ふさわしかれ』とみなが唱和した。
こうして神戸という地名ができたのだ。
遠い昔の神話に語られる、この地方の由来だよ」
-------------------
そのとき洋一は、やっと話に割り込む理由を見いだした。
「でも、神戸というのは、明治時代くらいにできた名前ではないんですか」
「うん?君も難しいことを言うね。だが、神々の世界では、過去も未来も共にある。
現象には、シンクロするという現れかたになるんだ。平たく言えば、そうなる宿命だったということになるのかな」
「・・・?」
「まあいいさ。いつどこでシンクロするかわからない。だがシナリオはあるから、知っておけばためになる。それが神話というもんだ」
「その神話とは?」
「あらましだったら古事記に書いてあるさ。ほほっ、乞食が古事記を語るとは、こりゃお笑いぐさだな。どれ、落ちもついたところで、ちょっと小用に」
そう言うと、方士は地下道の中に消えてしまった。
十分経ち、二十分経ち、洋一、いくら待っても方士が帰ってこないので、あの草原に行っているのかと、地下道に探しにはいっていくと、中は照明で明るくて、人がたくさん行き来していた。
そういえば、この下はN駅のはずで、今は通勤帰りの時間じゃないか。
おかしい。ここからこっち向きの暗い通路が続いていたのに。白昼夢だったのか?それとも、仙術でも?
洋一はよほど気になって、翌日休みを取って、以前方士が歩き回っていたあたりをもう一度歩いてみた。
一通り歩いてみたが、どこにも手がかりはない。
再び地下道の前に立ったとき、ああそうだと気がついた。
保健所の前でよく座っていたのを思い出した。
いつ行き倒れてもいいように合理的な行動をしているなあとかねがね思っていたことだ。
保健所に行き、あのちょっとつかぬ事ですが、この前によくいたルンペンさんはどこ行きましたかねと一人の職員に聞いてみた。
すると、中にいた職員みんなが、きょとんとして洋一の方を見ていたが、その中の一人がこう言った。
「ああ、あの人なら、震災の時に、ねぐらにしていた歩道橋の下敷きになって亡くなってるよ。なんせここでたびたび世話してたからね。後でどうしてるか見に行ったら、あの始末だった。気の毒なことだが」
それを聞いても、洋一、いささかも不思議な気になれない。なんせあの人は方士だから。
何があってもおかしくはない。
「そうでしたか」と言って、洋一は帰ろうとして、ふと立ち止まった。
「あのう、彼の遺留品の中に、ネブクロのようなものはなかったですか」
「ネブクロ、ねえ・・。ああ、そうだ。すごく汚れたネブクロに入って寝てたんだ。どす黒くなった紺色の」
「あっそう、それ僕が・・」
「あなたが?」
「いや、何でもないんです。どうもありがとう」と言って飛び出した。
そうか、亡くなっていたのか。よかった、ネブクロ使っていてくれたんだ。さよなら、方士さん。
そのとき、見上げた空の雲の上で、方士がくしゃみし高笑いしたようだった。


~~~~~~~~~~~~~~~
方士コメント

「なに?神々も、仲が悪くてけんかするって?
そんなことはない。
神話をシナリオとして、役者の神々は主人公に成りきって、能狂言の舞いを舞う。
舞台が終われば、お疲れさんを言いあう世界。
ハンサムな男神様も醜い姉神様も大の仲良しだ。
だが、舞台ではメリハリをつけねばな。
この辺、どこかの話に似ているな。
だが人間と違って、次の役が当たるまでは、至福の宮殿でお休みだ。
人間だって似てないこともないんだが、ねばっこくってアクがある。
それだから良い、わしゃ修行しに行くわという神様だって居るから、いろいろだわな。
ならば、人間は何かというと、舞台や役者の演技を支える黒子だな。
神々がいくらがんばっても、人類が手足となって動かねば何にもできんということだ。
神話編みはこの原理が分かっていないと、アクの強さに負けてしまいかねない。
よくよく気をつけるんだな」