新神話 第四章

第四章 人界代理雛形戦争

第一密命者ネアン

あるところに、徳薄く世俗の芥にまみれたネアンという男がいた。
50才の初老を迎えようとするものの独身で、生真面目ではあったが、思うに任せぬ成行に、不平をかこつ日々を送っていた。
ネアンには独特の信仰心があり、神々の存在を疑わず、自らの人生をいつも神と対峙する関係においていた。
ただ、神を一般人のするように格段の思いを持って崇拝したりするのでなく、一種の取り引き相手なのである。
それはときおり奇跡的なまでの功を奏するも、残り半分以上は、所作があざ笑われるかのように、からかいともとれる皮肉な回答に見舞われた。
そのような中に、こんなケースもあった。
ネアンは30才台のころから、人生に対して意義を見出せず、自らの寿命を50才に見切って生きることにしていた。
そしてこのときも神と取り引きしている。
「50まで生きたなら、必ず召し上げてほしいのです。
世の一般が楽しくおかしく暮らす中に、女を作り、子供を作り、そして人並みに人生をおよそ堪能するということからさえも縁がないならば、5 0才までいやいやながらも生きてみますから、再びこのようなからかいに満ちた世界に関わらせないでほしいのです。
これは私の魂がする最終自由意志と思ってほしい。も う人生というものは金輪際願い下げです」
前話のどこかで聞いたような話である。
そう。蘇民将来の段でこのような懇願があった。
ところが、ネアンはうってかわって忍耐力のない男であった。
少し意地のある者なら、奮起すれば何とかなるというものでもあろうが、繰り返される何かの祟りかと思える奇妙な成行に、ど うにでもなれという気から起きた注文であった。
かといって、決して貧窮に陥ったり、何かから特別な迫害を受けたりするということはない。
危険に遭遇すれば、うまく助けられている。
その意味では、蘇民将来の受けた不幸の比ではなかった。
そうするうち、区切りであるはずの50才の年齢に達する。
すると、おや待て、これでは約束が違うではないか、と思い出したように神に食って掛かるネアンである。
そんなときも、死後の先、どんな世界が与えられるか分からぬにもかかわらず、選民意識だけは持っているから始末におえない。
「神よ、生きたくもないのに、まだ生きています。どういうわけですか」
「・・・・」
「からかいと皮肉に満ちた面白くもない人生をまだ続けさせるおつもりですか」
「・・・・」
「お答えにならないなら、取引条件を出しますが、いいですか」
「・・・・」
「私が世間一般の人と同じように、恋人をあてがい、所帯を持たせてください。それができないなら、もう絶対に新たな使命も生もお与え下さるな。なんなら、魂ごと抹消してくれ。ばかたれ」
このうだつの上がらぬネアンこそ、梵天が密命を与えたという密命者であった。
彼はすでに、天仙配下の宇宙の監視網には引っかかっていた。
というのも、幼い頃の彼のもとにはたびたび地仙であろうと思われる精霊が訪れ、彼の遊び相手をしては帰っていったからである。
しかし、密命者という認識はなされていなかった。
そのような現象は、他の人々にも起こり得ていたから、天仙自らが調査に乗り出すほどではなく、異星人をして彼にコンタクトを取らせて、催眠術下で情報を聞き出す程度であった。
その分析結果は、特 異な少年の抱きがちな夢を反映したものではないかとして捉えられ、それでも予防措置的に、なるべく精霊の訪れることのないよう、受験勉強などを盛んにさせて、余計な閑を与えないような運命を仕組まれていた。
彼は小学校時代、授 業中に先生の話を聞きながら三昧境に遊ぶという芸当をしていたが、それは目を開けて眠っていたに等しく、何も頭に入らず、成績は良くなかった。
それを彼の親が成績向上がどうしたらできるかを先生に問うたため、先 生が特に彼の授業態度を注意して見ていて、このことに気付いたのである。
先生は、ある方策を思いついた。彼の目の前で掌を何度もかざして、学級生徒の笑いを買うように仕向けたのである。
やがて彼は自分のしていることに対して羞恥心が生じ、三 昧境を悪いことと思うようになり、精霊たちが彼の元に来にくくなったのである。
こうして彼は先生の言葉に耳を傾け、勉学に勤しむようになった。
彼は罠にはまるように、ベ ーター波ストレスによるいびつな精神波動を持つようになり、いっそう精霊の訪れる下地を失っていった。
ところが、彼がはからずも異界に光彩を放ったがゆえに、リストが調べ上げられ、天仙の目に止まり、このたび初めて、ネアンが梵天の密命者であるに相違ないと特定されたのであった。
だが、ネアンの様子を見て、天尊はどう思っただろう。
これが密命者? このソフトをクリアする水準には程遠い資質ではないか。
力もないのに、神への不遜さだけは人一倍。そこだけは梵天似というか。
ぶざまな人生で、しかももう人生をやりたくないなどとほざいている。
事成りの玉で見れば、二十年も前には、神を罵り、天に向かって唾を吐いて、自らの顔にかぶっている。はっはは。
文句たらたら、不平ばかり。良かったら良かったで、神に感謝を奉げたり奉げなかったり。
感謝を奉げてはいるが、あくびを噛み殺しながらといった具合だわい。今も昔もそう変わらない。
なるほど、梵天はこの者を、魂をここから離脱させたい者の前例にしたい腹なのかもしれない。ならばそのようにしてやろうではないか。
だがまて。こいつの希望した「魂を抹消せよ」とは、翻せばこの世界の抹消を意味しているのではなかろうか。
梵天の降ろした密命者は、様々なキーワードを隠し持っていると聞く。うかつには動けない。
準備として天尊は、ネアンの意向を汲んで、いつでも心臓発作でポックリ死ねるよう、彼の寝ている隙を狙って宇宙人の工作員を使ってインプラントを施し、彼 の心臓に不正リズムのタネを植え付けた。
ネアンはこのため心房細動という病となったが、医術は未熟で、医者はさほど相手にしてくれない。
どこに行っても、やぶ医者と遭遇する運命に導かれた。
これでいつ無理が昂じて死ぬかわからぬ下地ができた。
だが、ネアンのこの世に対する評価があまりにも辛らつであったため、直ちに死なせるも容易でなく、いつしか50才のハードルを越させてしまったのである。
梵天の計画からすれば、ネアンを憤死させて、この世界を取り潰すきっかけにしたかったのかも知れぬと考えると、天 尊はやすやすと去らせるわけにはいかなかったのである。
1993年、ネアンは小さな観光に出かけた。
淡路島にある寺院のようでそうではない巨大観音の姿のイミテーション寺院に入ったとき、ネアンの目は金塗りの滑らかな丸みを帯びた麗しい弁才天像に釘付けになった。
人と同じ目線に陳列されていたほぼ等身大の七福神像の前に立ったとき、ネ アンはその中の弁天像の美しさに見ほれ、他 の六神をさしおいて、特 別に線香の一本を供えながら、つい「こんな不肖な奴ですが、あなたに惚れました。心からあなたのような方と結婚したいと思います」と、つぶやいたのである。
畏れ多いことであろう。だが、目線に安置されているという親近感と、彼独特の神への不遜さが、あつかましくもネアンにそう言わせてしまった。
ところがそのとき、い まのいままで天仙の妨害によってまともにいかなかった梵天の分身と弁天の分身に邂逅の道が開かれたのである。
密命者が自ら願ったまともな?願いゆえ、天仙すらも妨害できなくなったのである。
時空はそのとき一瞬大きな歪みを見せ、何事もなかったかのように、いつもの流れに落ちついた。
ネアンの人生には、光明が射し始める。
実は、ネアンより遅れること十数年の後に、弁天の分身を宿すカンナオビとイナンナという女の子が生まれていた。
この地球に生まれるに際し、い かにピンポイントランディングを図ったとしても難しい中、ネアンから離れること数十キロの位置にいたのだから良しとしなければなるまい。
だが、時の流れは、それぞれの生きる目的に応じて、距離を遠ざけもする。
あまたある人の中からたとえ強い磁力で引き合ったとしても困難な逢う瀬となる。
しかも、全能を誇る天仙の警戒の中にあれば、まず困難な話であった。
それが当たり前のように、二人はすれ違いを繰り返していたし、後に降ろされた弁天の分身は、その時点から早くも天仙にマークされてしまい、何度も危機に晒されたのである。
しかし、二人に道は開かれつつあった。
これを見た天尊は苦々しく、手下に次の指示を出す。
「なに?梵天の導きがあった形跡はないというのだな。ネ アンの潜在意識には弁天の印象が刻まれていると考えられるゆえ、弁 天像を祭る社寺にだけは行かせぬよう妨害していたのではなかったのか。
ううむ。イミテーション寺院などといった道があろうとは。
偶然こうしたことも起きるのか。ならば事故というしかないが、もしかすると、梵天がシークレットネットを使ったのかも知れぬ。出会わせてしまうことは、我々にとって大いに不利である」
そこに太公望が考えを差し挟む。
「こうなれば弁天の密命者によって、梵天の密命者を懐柔させる方法をとりましょう。
奴にとってこの世をばら色に思わせて、この世に対する評価を高めるのです。
評価が程よくなった時点で、も との願いを容れて二人とも始末してしまえばよろしかろうと存じます」
「うむ。それもいいな」
闇太后は不愉快げな眼差しを天尊に注ぐ。
「あなた。それは違いますよ。出会うかどうかすらギャンブルの対象なのですよ。出会わせる必要がどこにあります。
私の調べでは、二人の世界線の未来を計算しますと、梵天の密命者と弁天の密命者の出会うのは1.5地球年の後です。
出会わせてしまう前に、心をばら色とやらにしてしまい、さっさとネアンのほうを始末してしまえばよろしいでしょう。要は、評価さえ高めておけば、どう始末しようと勝手です。私は何を鈍臭いことをしているのやらと思えて、不愉快でなりませんよ」
「わかった。その辺はお前に任せよう」
「方法はおって考えておきます」
「とにかく、生殺与奪のカードはこちらにありますから、優位は依然変わるものではありません」
「うむ。みな心してやってくれ」

異彩を放つ

ネアンが生まれたのは、海辺であった。
海の向こうには、白砂青松の砂洲があった。
遠い彼方ではあったが、お盆などの花火の折には、打ち上げられる場所としての憧憬が子供心に与えた。
だが、そこが砂洲であると知る前に、ネアンは親とともに、反対側の海辺の町へと移っていった。
物心がつくのは、誰しもみな同じころなのかもしれないが、ネアンが覚えているのは、6才以降のことでしかない。
利発さは微塵もなく、いつもぼんやりとした子供であったから、子供仲間のうちではいつもいじめられる側であったが、外ではよく遊ぶ外向性を見せていた。
しかし、11才になり、腹部の不調で手術をすることがあり、出血による貧血で意識が体から離れるようなことがあった。
このときを境に、いきおい内向的となり、外で友と遊ぶことがなくなり、周囲を奇妙がらせた。
外向性にかわって審美感覚が鋭くなり、老長けた物の考え方をしだしたのである。
この頃、なおもぼんやりとして物思いにふけることが増えていた。
心が異次元に吸い上げられているという感じであった。
かわって日本人感覚といわれた陰影のおりなす幽玄の美を理解し、光 の色彩の醸すわずかな揺らぎの中に、この世のものならぬ美を見出した。
漆塗りの着物掛けに描かれた濃鼠緑の空間に飛翔する丹頂鶴に、限 りなく自己同化した。
また、音楽を聴けば、その旋律に潜む音の精髄を聴き分け、それの含まれない軽率な流行歌や演歌を軽蔑した。
それを歌う歌手を嫌い、白拍子だと酷評した。
学校では授業に向かう態度はおとなしくも、多くの時間、ぼんやりを通り越して教師の話を聞きながら目を開けて三昧の法悦境に浸っていた。
いったい三昧境の中でどんな夢を見ていたのか。
「おいでよ。ここだ」
白昼夢に現れるのはきまって同じ年頃の美しい少年だった。
「また良いとこにつれていったげる」
ネアンは、「うん」と頷いて付いて行き、共に異界のきれいな風景の中ですごした。
その男の子とは、梵天であった。
梵天は、ネアンに宇宙とそのあらましを教育していたのである。
これからの将来にいつか必要となる知識であった。
当のネアンはそんなことを知る由もなく、めくるめく異界を見分した。
ネアンがある日の三昧境にあったとき、梵天である少年は森の中で姿をくらました。
置いてきぼりにされたネアンが、道に迷って出た先が川のほとりだった。
ひとり川で泳いでいた人がいた。が、あの少年ではなく、美しい少女であった。
ネアンはいつしかほとりまで来ていた。
すると少女が上がってきて言う。
「来てくれるの、待ってたよ」
ネアンに全裸のまま近付くと、ネアンの唇にちょんとキスした。
ネアンは不思議な気持ちにとらわれた。
どこかで知っている気がしたのである。
少女は、少し怒り顔をしてこんなことを言う。
「あなたはいつも先に下界に行ってしまう。しかも、今度は女の子として生まれる予定と言っていたのに、また男になっちゃって。今度は私が男になるつもりだったんだよ。
同じ年頃に生まれてあなたをすぐにお嫁さんにするつもりだったのに」
「どうしてこうなったのか分かんないよ。気がついたら男だった。なんなら、ここで君の恋人になっても良いよ」
「嬉しいけど、ここでいつまでも遊べるとは思っていないよ。
それよりも、早く君に下界で逢いたい。何か大きな予定変更があって、私は待機中になってしまって、いつ下界に降りられるかわからなくなったんだ。それより、いいこと教えてあげようね。
こないだ、私は君に”白蛇伝”という映画を見せるように導いた。実は、あの映画は、私たちの話なんだよ。
白蛇の精”白娘”が私で、あなたは”許仙”だったんだよ。あなたはこのときも早く生まれてしまった。
どういう事情でそうなったかは、後で知って仕方なく納得したけど、私はあなたに会いたくて会いたくて、死に物狂いで生まれる算段をしたんだよ。でも、せっかく出会っても、あなたには何度もがっかりさせられた」
そう言うと、少女は、あの映画に出てきた白娘のみやびな姿に変化した。
そして、ネアンの体をさすると、ネアンは許仙の姿になっていた。
「そうしてまで会いたかったのよ。許仙」
そう言われると、ネアンに在りし日がふつふつと思い出された。
それは白蛇伝の映画を見た記憶だったのだろうか。
初めて会ったあの日。潮騒の音の向こうに、湖があった。
彼は湖を望む屋根のある望観台に佇み、笛を吹いていた。すると、にわか雨が降ってきた。
と、どこに隠れていたのか、明るい服を着た娘が、屋根の下に入ってきた。服をぬらした雨を払っている。
許仙が雨宿りを勧めると、娘は、なまめかしく愛らしく、彼を見やって、笛の音を誉める。
そしてお互い自己紹介しあうと、許仙は自宅での逗留を勧め、娘は妻子の居ないことを知ると了承したのである。
許仙の家で、濡れた上着を取り去り薄物だけをまとった白娘は、携えた桃の実を半分に切り、許仙に食べさせると、もう半分を自らの口に含み、そのまま許仙と抱き合い、接吻しながら桃汁を互いの口の中でやり取りしたのであった。
そのとき、少女の変化した白娘が、ネアンの変化した許仙に、あの時と同じスタイルで抱き付いた。
お互いが昔日に戻って、恋の始まりを味わい直した感があった。
さて、十分に耽溺の世界を堪能した二人は、その姿のままで幻想的な世界を旅して回った。
そこで、霊界全体を震わすようなオーケストラも聴いたし、自然界のどこにもないような風景を堪能したりもした。
しかし、この三昧境は、潜在意識が感得した経験であり、ネアンが目を覚ますと同時に甘い余韻を残して消えていった。
むろん、顕在意識が記憶しているはずもなく、ときおりその消息をつきとめようとはしたが、すべて当てが外れた。
顕在意識とは異なる次元の出来事であったため、記 憶の受け渡しができなかったのである。
学校では三昧境にふける生徒を目にした教師が快く思うはずがない。
教師は、ついに行動をあらわにした。
考えに考えて、羞恥心を植え付けようとの魂胆であった。
彼の顔の前で掌を振るものだから、クラスの者はみな笑う。
教師のしている行為よりもむしろ周りの騒音に、三 昧境から覚めるということを幾度か繰り返すうち、やがて羞恥心が芽生え、三昧境の癖から離脱するようになった。
三昧という傾向それ自体からすれば、インドのような好適な環境にあれば、立派な正覚者となり得たかもしれない。
しかし当時は、この教師のしたことを、ネアンの親も、何も知らぬ顕在意識下のネアンもありがたがったわけであった。
ネアンの成績は上昇していったが、ネアンにとっては寂しいばかりになっていった。
この世とは、どこぞの世界とは違い、必要な精髄あるいは英知というものは、多くの無駄や粗悪の中に埋設されている。
心の琴線を震わせる感動は、あるいは喜びは、長い苦しみの間にほんの少しやってくるのである。
音楽でも、精髄は一部含まれていればまだしも良い曲となり、人が好む曲となり、ベストセラーにもなるのであって、少しも含まれなければ、一過性かあるいは人気のない三文曲としかならない。
だが、そ うだとしても、す べての旋律を精髄に代えてしまうことは、ま たかえって逆に、この世にあっては味気なさとしか映らず相応しいことではないのである。
それはもともとこの世が、精髄(純粋英知)を受けつけるたぐいの世界ではないことを意味していた。
ただ、魂あるものが、本源をふと垣間見るよすがとして精髄は存在しているのである。
だがこれすらも、天仙にしてみれば面白くない現象であった。
睨まれた音楽の分野も、しだいにアップテンポで肉感に満ちたものとなり、精髄の入りこむ下地を閉ざしていった。こうして、人間の心に邪悪と退廃が支配的となっていったのである。
ネアンは、長ずるに従い、純粋状態から外れていった。
高校に入ってからは、周囲との軋轢に悩み、自殺をも企てた。
三昧状態は時折きざしたが、心を癒すほどのものにはならなかった。
仕事に入ってからは、嘘をつき、卑怯も覚え、勇なき行為をいくらも繰り返した。
こうして子供は堕天使となっていくのである。
ところが、ネアンは神仙に対する興味だけは持っており、神話などにも不遜な解釈をしゃあしゃあとやってのけた。
仕事の合間に涌き出てくる豊かなインスピレーションは、隠 し置いた傍らのメモ帳をたちまちいっぱいにした。
それは何かに憑依されたときの自動書記のようなものではなく、興 味する対象への素朴な疑問へのどこからともなくやってくる解答であった。
独りでに知識情報の塊がドンと訪れることがままあった。
たとえば、自ら疑問を持ったことを虚空に問いかける。
するとどんなに難しいと思われた解答も、理 路整然と降って湧くように脳裏を掠めたのである。
精霊はやってこなくなったが、啓発的テレパシーはいつでも望むときにやってきた。
といっても、もともと問い掛ける事柄が奇想天外なものゆえ、実用に供する解答ではなかったが。
神話の意味付けから世の真理、宇宙論に至るまで、彼にとっては現実問題よりも、あるいは何億の大金よりも格段に大事な事柄であった。
それらは、幼少の頃に、梵天によって授けられた知識であり、潜在意識に入っていたものだった。
独身で暮らす文化の寝床も、こ うしたメモ書きの散乱する海に浮かぶ島のようであった。
彼にしてみれば、さ ながら他の誰も知りえずにいる宝の海に寝転がっているようなものである。
金やその他のこの世的価値は何一つなくとも、心の中は満足し切っていた。
こんな風であったから、新しい所帯を持つ気配もなく、仕事場からも怠慢を睨まれるようになり、リタイアを余儀なくされていくのである。
だが、これも持ち前の価値観の違いから、致命的な心理的落ち込みに繋がらず、宇宙論や神話解釈に関するアウトプットを出して、人生の半生における一応の成果とした。
人生の価値を仕事や社会的地位に求めることを放棄して、ど んな学者も目もくれないであろう見込みのない研究に没頭するようになった。研究成果こそ、我が子であると自らに言い聞かせながら。
そして最後の日に、ある阿呆が一つの命を閉じたと思えば上出来。
こんな人生もあって良いではないかと、心で呟いた。
こうして彼は、想いの中でおよそ一般人の持つ人生の価値感を棄捨していた。
世に溢れるさまざまな射幸心をあおるソフトは、つまらない限りであった。
これだけ生きれば十分と思うほど、人生にそれ以上の意義を見出せないでいた。
当然、生きるに前向きではなく、うだつの上がらぬただ老いていくだけの男となっていた。
そんな彼も、ようよう40才になるころ、神話解釈から踏み込んだ更なる発見をしてしまう。
一般受けしない破天荒なものであったが、日 本の歴史のルーツを知る手がかりとなる証拠を、神話級規模で存在することを発見したのである。
その着想からして、普通人の考えつくことではなかった。
梵天のシークレットネットからもたらされたものかと、天 尊がいぶかった情報でもあった。
そのときに神話と天仙の仕掛けた暗号が符合し、そ のアウトプットが光彩を放ったため、はじめて天仙の監視網にかかったのである。
ここに梵天の密命者がいた、と仙界は大騒ぎになった。
当のネアンは、このとき少なくとも大発見したと思った。
そして、彼自身の中で、使命感と共に自分の人生もまんざら無意味ではなかったという実感が沸いたのであった。
それを取り纏めて本にするときが来た。彼にとってみれば、今度は人生の8割がたを生きたことの証し。
我が子がまた一つ生まれようとしている瞬間であった。
ネアンは、かねてから自らの寿命を50才と見限り、やがてその年になるころのアウトプットであった。
<出すべきものはみな出したことになる。為 すべきことはこれで終わったかも知れない。
もう自分の終わりがいつきても、それで役目が終わったと考えよう>
ただし今度の場合、彼が真実の書と信じるゆえに、そこに書かれる内容からして決して良いとはいえぬ現象を誘起することとなった。
<隠されたこの世の秘密が明るみに出るとき、秘教を支えそれに頼った体制は終幕を迎える>
まさにその前ぶれ的な事件が起きてしまった。
本作りの最終工程に入った段階で、巨 大地震が彼の自宅や出版物の版元を巻き込んで起きたのである。
幸い版は被災を免れて出版はなされたが、書 物による顕しの効果を如実に目の当たりにした彼は、怖くなり、市販流通を自粛することを出版社に申し入れた。
ところが出版社は、彼の話に耳を貸すことなく、手 違いがあったことにして全部を全国流通させてしまった。
彼は抗議し、返 本をすべて回収することとしたが、全 体の6割5分が売り切られていた。
残りの3割5分はお蔵入りし、霊感を付与した神への奉げものとなった。
だが、蓋を開けてみれば、” 秘密”を抱えそれに頼った国の経済力は、あい前後して起きたバブル崩壊によって一気に6割5分を減退させてしまい、彼 は出版が惹起することの恐怖を再確認するのである。
不思議といえば、この本の制作段階の初期にある頃、ネアンは奇妙な人物と知り合っていた。
それは短髪の坊主頭が似合うキタロウというUFO撮影家であった。
撮影成果の数には目を見張るものがあったにもかかわらず、こ の人物の存在はほとんど世間には知られていなかった。
彼は、チャネラーでもあり、主として宇宙連盟加盟星の指導者級の人々と想念コンタクトを取っていた。
そして、地球上の人々宛てのアドバイスメッセージをよこしたのである。
ネアンには、これらの星々の人たちからの生の情報を、同行のたびに伝えてくれるようになっていた。
そうするうち、この人物はネアンにとっての親友となった。
キタロウが誘ってUFO撮影に行った二回目のこと。
ネアンのカメラに見事に龍神の舞いと思しきUFOが2、3 分に渡って記録されたのである。
UFOへの親密感が増すとともに、キタロウを本物であると確信した瞬間であった。
キタロウは、宇宙連盟のUFOであると説明したが、ネアンには土地になじんだ龍神かその類いの霊的な生き物のように思えた。
平行して本の制作に関わっていたネアンは、宇 宙人もしくは龍神さえもこの本に何らかの期待を持っていると思ったのである。
先の巨大地震が起きたのは、ネ アンのカメラに龍神が写った日からちょうど100カ日目のことであった。
彼は、自分の関わる二つの事象が震災に関わったと、まじめに思った。
ネアンは、驚 異的な経験を、根 っからの不思議好きとあいまって、公 開しようと考えた。
おりしも世間は電脳社会を迎えていた。誰 でもが電波に乗せて情報発信のできる時代となっていた。
彼は自分の経験を元にした不思議ストーリーや、生来持っている自然観を元にしたストーリーを書いて、ホームページに乗せた。
この方面の同好の士とも、面会せずとも電脳的に付き合うようになった。
ネアンはキタロウが本来もっと公に認められるべきと思い、ま たキタロウ自身の希望もあって、彼を宣伝するクラブ作りに尽力するが、不 思議なことに新たなメンバーは一向に現れなかった。(キタロウは後にUFOを呼べる男としてデビューした)
いや、遠 路訪ねてくる者はいたが、あ の集客力豊かなはずの宣伝からの訪問者でもなく、やはりシークレットな関わりを持つ人物に限定されており、常 に行動をともにできるメンバーにはならなかった。
このため、ネ アンはキタロウが自分だけに当てがわれた何者かではないかと感じはじめた。
キタロウも逆にそう思うようになっていた。
ネアンにかつてインプラントした勢力が、天仙の指示を受けて、ネアンのその後の足取りを追っていたのかも知れなかった。
いっぽうネアンは空想に走り、電波に乗せるべき不思議ストーリーの書き手として、一つの創作物語を書く。内容は宇宙人との長い会見に関する夢を見たというもの
キタロウはチャネリングを行い、交信先の宇宙人の情報をネアンに伝えたが、ネアンがそのような宇宙人と会見してみたいと言ったところで、か なえてもらえることがなかったから、自ら創作したまでであった。
その中で彼は主人公となり、かなわぬ恋を成就させて満足した。
なんと、他の惑星の爬虫類の女との恋なのだ。
これが図らずも後ほどシンクロすることとなる。
そんなとき、淡路島のイミテーション寺院にたまたま行き、弁才天像に出会ったのだった。
ネアンの最後の怒りが、守護者に届いたのであろうか。梵天は彼の分身が真に求めない限り放っておこうと考えていたのだろうか。そうすることによって、天仙の世界の無情が知れるわけだから。
だが、ネアンがした心の雄叫びは、梵天を通して弁天の耳にも届き、いよいよ弁天も身体を張って自らの分身と逢わせるべきことを梵天に主張したのである。こ れを受け梵天は、シークレットネットを使い、ネアンに思いつきを与え、イミテーション寺院に赴かせたのだ。
すると、ネアンに不思議な縁が舞いこむようになった。
彼が50歳になるまさに直前の日、ホームページの同好の士の中に、ネアンにとってはじめて好感を持つ女性が現れたのだ。
カンナオビという文学に志す家庭の主婦であった。家 庭を壊すわけにはいかないことをお互いの了解事項として、電 脳を背景とした電波に乗せての恋のやり取りが開始され熱烈なものとなった。
お互いが、はじめての恋愛という喜びの感情の起伏によって満たされ癒され、明日の活力を得た。
カンナオビは向上心を沸きあがらせ、社 交界にうって出ようと心身に磨きをかけるようになった。それを心から喜ぶネアン。
付き合って約一年経ったが、依然二人の仲は良好であった。とはいえ不思議なことに電脳的やり取りに終始し、いちども対面せずにいたのである。
会ってしまえば、おそらく火花が散るほどの恋愛となろう。それは女性にとって、家庭への裏切りとなる。正直な女性ゆえ、もしかすると一方向的に、破綻へと突き進むかもしれない。
ネアンにもそれはよく分かっていたし、逢 ってしまえばかえってがっかりするやも知れぬと、本当に会おうという意志がどちらとも不統一なままに推移していた。カンナオビもそういう思いであった。
そんなときである。
ネアンの元に、電脳的手段によって別の女性から問い合わせが入る。
今度は文学ではなく、ネアンが関心を持つ不思議系からの切り込みであった。その女性は、今までの自らに起きた不思議な出来事の数々について綴ってきた。
中でも重要なものとして、幼少期に現存する八角堂の夢を繰り返し見、夢の中で出会った青年を大人になった今の今まで探し続けていることや、長 じて後に十日以上に渡る臨死体験をしたことがあるほか、数 多くの不思議な夢を見たことのある経験の持ち主であった。
ネアンも不思議な出来事には興味があり、自ら研究者でもあると自認していたから、その逐一に自分なりの見解をしたためて返してやる。す ると今まで誰にも相談できたためしのないことゆえ、彼女の相談も堰を切ったように行われるようになった。
ネアンはこうして、電 脳的手段によって彼女の精神的なカウンセリングをするようになった。
彼女自身、なぜ自分はここにいて、どこに行こうとしているのか、数々の夢見や不思議体験による謎解きのためのカードはあるも、解答が得られずにいるのだと話した。
協力して謎解きに挑戦し、解答を用意してやろうとするネアンに、彼女も信頼を寄せるようになる。また、いま置かれている苦悩の日々について綴ってくるようになった。彼女の身に起こる不思議な事象と、今 の彼女の苦悩に満ちた家庭生活が決して不可分ではないありさまがネアンには見て取れた。
彼女の名は、イナンナ。三人の子を持つ家庭の主婦であり、お互いの深入りはさし憚られた。
だが、あるとき、ついに核心に触れる要請がイナンナから出される。
「あの八角堂に、い っしょに来てくれませんか? もしかすると八角堂の青年はあなたかもしれません。それに、もし間違いであっても、もうあきらめがつきます。夢は夢。
単なる幻でしかなかったことになるでしょう」
諦めがつくとは、彼女がこの人生に解答を見出せず、これからの苦悩の生活に身を委ねていく覚悟を表していた。
「分かりました。もし違っていても、がっかりしないでくださいよ」
イナンナから様々な悩み相談を受けていること、その日逢う約束をしたことを、ネアンはカンナオビに告げる。
カンナオビは、今 までいちども会わなかったことをそのときほど後悔したことはなかった。
「その人と会うことを約束したんですね。じゃあ、もしかしたら・・」
「そんなことになるわけないだろ」
「もしその人がきれいな人だったら、あなたは手が早いから、信じられない」
「ばかな。初対面で、恋愛話もしたことのないのに。それにえてして女性から言い出してきたことというのは、キャンセルになることが多いと思うよ」
「そうね。いちおう信用します。それからもしキャンセルになったのなら、どうかその日、代わりに私を誘ってください」
「えっ。君が? いいのかい?」
「はい」
しかし、その日、イナンナが約束をキャンセルすることはなかった。
一つのテーマを持たされた舞台で関わらねばならない配役というものは、こ うした形でどこかに潜み、や がて磁石がともに引き合うように舞台の真ん中に揃い踏みしてくるのである。
そのテーマを付与する者とは?
天仙の宮殿と蓬莱島に分かれて両者がこの有様を観戦していた。
「太公望殿。かつて白娘と許仙の恋仲の深まるのを快く思わぬ青龍なればこそ、ここでみごと割って入ってくれるものと期待したのです。蓋を開けてみれば、何と簡単に引き下がること。私の見込みが違っていたとは不覚。それもこれも、イナンナを早いうちに廃人にしてしまえなかったからです」
「奥様。嘆きあそばしますな。これからも幾様にも優位ある展開が可能です。青竜はもともと白娘に味方した女です。かつての性分が出てしまったのでしょう。だが、まだまだ法海がおります。この者は妖怪とみれば徹底して戦い、呪力大です」
「ああ、最初に何というおかしなルールを設定したものでしょう。過去世のキャラクターと無関係なものを投入できるものなら、極悪非道の女をネアンにあてがえたものを。
悔しい」
「大丈夫です。次はお任せください」
だが、蓬莱島の見解はいささか違っていた。カンナオビとイナンナの二人について、中国仙界のアウトロー的配役、白 蛇と青蛇という過去世譚以外に、こ の恋愛劇の舞台裏で、どのような経過があったかも見ていた。
梵天の密命者は一種の工作員のようなものである。キャラクターが出会い、そのとき相互作用のうちに伝えるべき密命は、予め自分の中に刻み込んでいくものである。ちょうどそれは舞台のシナリオを何度も練習して覚える俳優のようなものである。候 補者は何人かに絞られて、その中から抜擢されて下向する。
当初、カンナオビだけが差し向けられる予定であった。だが、そのキャラクターを演じるべきカンナオビの魂が下向した直後に、白 蛇であった者が周りの反対を押し切って無理やり下向してしまったのである。
とんだスケジュールミスのような失態から今回の代理合戦は始まったかに見えた。だ が、梵天と弁天が邪神たちの目をくらますために謀った別のシナリオがあったのだ。

第二密命者は?

先のカンナオビがこの世に登場したのは、ネアンより12年遅れ、後のイナンナがこの世に登場したのはネアンより16年遅れてであった。二 人の密命を帯びたシナリオを広目天が守護することとなった。
天仙邪神に悟られぬように定められた時が来るまでにネアンの極近に努力したカンナオビとイナンナであった。
彼女らがネアンの存在を知るには、社 会がネット時代という広域的な一億情報発信の自由が約束されるようになってからであった。ネ アンが気にも留めず張っていたホームページというネット上のアンテナに、まずカンナオビがかかり、次にイナンナがかかるような格好になった。
そのとき、すでにネアンは中年の域に達していた。彼女ら二人も、すでに人並みの結婚を、幸不幸は別として、果たしていた。が、どちらもがネアンから距離にして40Km圏に居住していた。カ ンナオビはごく普通の女性であり、不 思議な世界とは無縁でいた。
だが、イナンナは数奇な運命を持って生まれていた。
イナンナは人一倍信仰の篤い家庭の一人娘として、ロ ーカル色の強い町中に生まれたのであったが、厳しい躾の中で育てられた。そうした厳格な抑圧からのトラウマであろうか、イナンナの生涯は、夢見と切り離すことのできないものとなった。
とりわけ奇妙なのは、幼少期から同じ不思議な夢を何度も見たことである。
それは決まって向こうに大きな島が臨まれる内海に面したところに突き出すように設けられた、八角堂に関わる夢であった。
海沿いの道を、何者かに追われながらとぼとぼと逃げている。何か大事な袋を肩にかけていて、袋の破れ目から中のものが光を放っている。それを誰かに届けなくてはならないという思いを持って早足で歩いているが、何 者かに追われている気分も伴なっている。
そして決まって辿り着くのが八角堂であった。
ところが、八角堂はどの窓も閉ざされ、入り口の扉には鍵がかけられており、中に入れずに途方に暮れている最中に目が覚めるという具合であった。
このころからイナンナは、夢 を自分である程度コントロールできる夢見というすべを身につけていた。だが、この夢ばかりはその先をどうすることもできなかった。それゆえイナンナの心に印象深く刻まれる出来事となった。
ところが、あるときの夢で、ついに追っ手の何者かが正体を顕し、おどろおどろしい化け物の様相を呈した。逃げ惑うイナンナに向かって「お前は偽物だ」と何度も呼びすがった。イナンナは怖くて走って逃げながらも、はじめて「私は本物よ」と言い返した。
すると魔物は掻き消えるようにして消え、追っ手の印象も消滅した。
やがて八角堂が見えてくると、その扉がはじめて開いているのを目撃した。
彼女はこれで逃れられると、一目散に扉の中に逃げ込んだ。ところが、今度は逆に中に閉じ込められてしまうのである。何 者かによって周りに誰がいるかも分からぬほどの暗い部屋に連れ込まれ、椅子に縛りつけられ、不愉快な拷問を受けている最中に目が覚めるようになった。
日を置いて何度かその夢を見る。その他のときは、ごく普通の夢か、自らの意志で造形のできる夢見であるのだが、や はり八角堂の夢のときだけコントロールが効かなくなるのである。
当時から不思議な少女と周りの人には思われていたが、謹厳な両親は、周囲におかしな話のもれることを嫌い、厳しく叱りつけたので、お のずとこのような夢を口にすることはなくなった。
そのような夢見を繰り返していた10才のとき、夢 のストーリーに新たな展開があった。
八角堂の中のある場所にたたずんでいるとき、不思議な青年と出会ったのである。イナンナは青年に抱き締められるや、八角堂の閉ざされていた窓が開き、そこから二人して外界に飛翔して出るという夢であった。そして、不思議な八角堂の夢は、以来、見ることはなくなった。まるで、あの悪夢全体から解放されたかのように。
この鮮烈な夢の印象に、イ ナンナはこの人物こそ自分をいつの日か自由にしてくれる王子様ではないかと考えるようになった。少女ならば夢見がちな、夢ロマンというものだったかもしれない。だが、違っていたのは、大人になるにつれ、思慕の念が募ったことである。なぜなら、夢の中に出てきた八角堂は、紛れもなく実在したからであった。
これは彼女がもとより夢見のできる力を持っていた証拠である。た まの学業の休みのときに、遠いながらもそこに立ち寄るイナンナ。そのころ、八角堂は当初の夢で見たとおり、閉ざされていた。なすすべもなく、そこから臨まれる海にたたずんだ日々をいくつも重ねた。
八角堂が実在したのだから、またも思うのは、必ずやこの人物はどこかにいるだろうということである。
私をあのとき助けてくれた人。きっと私の生涯にとって重要な人に違いない。可能な限り探してみよう。こうした思考回路が彼女に生まれても仕方なかった。
買い物の雑踏の中や通学の途中の乗り合いの乗り物の中を見まわし、あ の人物の姿を追った。しかし、それらしい人物に出会うことはなかった。
ただ、彼の思い出を、多の同年代の少女たちがしていたように、スターのうちで最も風貌の似ている人物の熱烈なファンになることで留めようとした。そ のスターは決して男前とは言えなかったし、またひどく人気があるわけでもなかったが、仲間の「変わった人が好きやねえ」と いう冗談めいたそしりを受けながらもファンであることを堅持した。
だが、少女も大人の仲間入りをする頃、他の少女たちがしているように男に興味し、成行のまま男に抱かれたのであった。
関係した男には期待が沸くものである。似てはいなかったが、もしかしたらこの男があの人物かもしれないと考え、イ ナンナは男を伴なって八角堂のあの場所で夢と同じ光景をシミュレーションした。
この頃からイナンナは、夢(=神話の象徴)が現実に起きることに対して投射していると考えていたのである。それはまるで、アメリカインディアン的発想であったのだが、彼女はひとりでにそう思っていたことに前世的な素質が見出せる。加えて、いろいろな本を読み漁るうち、自らの霊媒体質の原因を含め、そんな変わったことを思う自分を推理して、過去世には巫女ではなかったかと思ったりもしていた。
だが、イナンナはその後、まるで冒したことが禁じ手であったかのように、解放されるどころか不自由の枷に囚われるようになった。
このとき選んだ思慮の足りない行為を、然るべき人に処女を奉げなかった罪ととり、身に受ける苦痛とともに長く悔やむこととなるのである。まさに、逃げ込んだはずの八角堂に今度は囚われるという段階が、現実世界に投射しているかのようであった。
イナンナの身に異変が起こった。
仕事に就いてからしばらくして、生 真面目さが仇となって体力の減耗をきたしたことによる臨死体験であった。このときばかりは、昏睡状態を含んで10日以上を病床に伏した。それはもう、この世の思考の枠を遥かにはみ出した壮絶な体験であった。
臨死体験といえば、こ の世に再び意識を取り戻すことが決まってはじめて語られることである。そのような例はたくさんあるが、決まってストーリーは長いものではない。
ところが、イナンナの場合は何日も昏睡の夢の中にあり、そのボリュームは他の例の比ではなかった。
臨死体験とは、当人にとってみればその内実は、神 や世界やあらゆる認識の対象を相手にした、生と死を分け隔てる戦いなのである。しかも、意識あるは自分ひとりであり、見も知らぬ環境に突然放り出された孤独な存在である。こ とにイナンナは夢見ができたため、つまり夢の内容を鮮明に記憶することができる素地を持っていたため、とりわけそれはおどろおどろしく鮮明で驚嘆に満ちた記憶となって残った。
しかし、その内容は、原色の体験とはいえ、実に嫌悪すべき拷問の様相を呈していた。
ちょうど幼少の頃の夢見の、八 角堂の密室での陰湿な拷問の課程がこの臨死体験に対応したかもしれない。
何人とも共有できるはずのない個人の意識の中でのみ起きる不思議がここにあった。
しかも、どんな臨死体験者よりも、深い先を見てきていたのである。
イナンナが臨死の世界に放り出されたとき、中 陰の世界で二つの手続きが進行していたことを知る由もなかった。
元来、イナンナの魂は弁天の分霊を宿していたため、臨死体験の中で、上は神々の領域から下は地獄の最下層までを瞥見する手続きを踏まされた。だが、はじめて遭遇する見たこともない畏怖すべき出来事の数々に、霊 の失禁とも言うべき二次的な分霊が行われていたのである。このとき生じた分霊は、イナンナの目下の意識とはかけ離れたところで意識的行動を取っていた。
<私はもうすぐ死ぬ。でも使命としてあの人に会わねばならない。会って、言付けしなければならない。私の会うべき人はどこ?>
想いは純粋いちずなものとなって、霊的次元の高みに上り、八角堂の君を的確に探しあてたのである。だが、想いを結びつけるには、同じ次元においてのみ可能となる。
イナンナの分霊は、頃合いを見計らい、つい今しがたこの世に猫として生まれ落ちたものに宿った。
雌の子猫であったが、満足に歩けるようになるや、庇護していた母猫の元を離れ、自らの感をたよりに都会の雑踏に滑り出た。会うべきものに出会うために、せかれるようにして。
そして子猫は赤い糸に引かれるようにして、赤 信号で停車中のネアンの運転する車の下に潜り込んだのである。
この一部始終をネアンはサイドミラーで見ていた。
どのミラーを見ても、抜け出た様子はない。バックミラーに写る様子もない。むろん前方にも現れない。寒い冬の日であったから、猫がよくやるように、暖かい車の下に入りこんでいることは想像できた。
そのとき、側道の歩行者が、「下に猫がいるよ」と声をかけてきた。やはりか、と思うネアン。
幸い後ろに車は居らず、ならばと外に出て下を覗き込むと、良くないことに、子猫は左後輪にへばりついていた。
「おいおい、こんなところにいたら轢かれるぞ」
そう言いながら、手を差し伸べて子猫をつかみ、横の植え込みに放す。
そして歩み去ろうとすると、子猫は植え込みから出てきて、またも車の下に入った。
とうとう別の車が後ろに来る。彼は、ハザードを出し、車の下に問題があることをゼスチャーして謝りを入れ、救出に向かう。子猫は、またも左後輪にへばりついていた。
手を差し伸べ、つかみ出し、植え込みに置く。するとまた、ちょこまかと車の下に走りこむ。
こんなことを何度も繰り返せば、ネ アンも何かの因縁であろうかと思わないではいられない。
ネアンは、母を失った子猫だろうかと思い、このままにはできないと、畜生の飼育を禁ずる家ではあったが、連れて帰ることにした。
その前にミルクを買い与え、仕事が終わるまで、車 の中にミルクの容れ物とともに置いておくことにしたが、戻ってみると、車の中は無残にも、猫の糞便とすさまじい臭いで満ちていた。
子猫は困り顔の彼が車から家の中に連れ帰るまでの掌の中で、安住の感情を、のどを鳴らして表した。
ちょうどそのとき、当 のイナンナの魂はめまぐるしく激しい中陰の手続きの試練を受けていたのであった。
ところが、傍らに導師の存在が感じられるようになり、その声に導かれるようになっていた。
眼前におぞましい光景が展開し、悪 鬼のような審判者がイナンナに矢継ぎ早に質問を浴びせるとき、傍らの導師から、「このように応えよ」と、次々と解答が与えられたのである。
こうして、心が安堵するまでにはなかなか至らぬまでも、千問にもわたる質問を次々とパスしていった。
実は、分身の子猫が見つけるべき相手を探し出したことにより、神話空間に一つのルートが開かれたのである。
ネアンに宿った梵天の分霊が、イナンナの危急に気付き、今まさに生死を賭けた戦いに臨むイナンナに身を呈して共に試練に臨み、アドバイスを送り続けていたのである。
イナンナは、これが八角堂の君であると心の片隅で想った。ついに審判者は、アドバイスを与える者にまでいくつもの試験を与える。そ れを次々とクリアーするイナンナとネアンの本体。
「どうしてそこまでかばいだてする? 愛か? ならばこうすればどうだ。も うこれ以上、この者を愛することはできまい」
審判者は泥で、イナンナの体の穴という穴をみな塞いでしまった。だが、ネアンの分霊は、自らを気体に変えてイナンナの体を包み込み、毛穴という毛穴から出入りして見せた。
これを見て、審判者は目を丸くして、「なんたること」と唸ると、苦々しい顔をして去っていった。
カンナオビやイナンナが遠隔地にいても、ネアンが電話一つで意識の体を飛ばし、彼女らの全身を包み込みリアルに愛せたのは、この技術であった。
イナンナは、このときの臨死体験を克明に記憶した。むろん、千問にも及ぶ質問とその解答の中身についてはほとんど忘れたが、そのとき抱いた心の試練だけは覚えていた。
そして中陰の手続きから逃れ出る際、「仕方ない。あと30年の命を授ける。ただし両親のために生きるよう。そうでなければ、直ちに命を召し上げる・・」という言葉の投げかけを最後に記憶し、病院のベッドで目覚めた。意識を失ってから、14日後のことであった。
さて、そんな臨死経験を経てきたイナンナに、彼女の両親は早く結婚させたほうが精神が安定してよかろうと、見合いをさせた。またイナンナも、夢で見た八角堂の人は、あの世の人であり、こ の世の人ではないと諦めてしまい、周 りの友人が次々と結婚する中、苦労の少ない家庭生活への憧れもあり、そ んなとき飛びこんできた見合話に乗ってしまった。
気乗りしなかったが、どうしてももらいたいという要請に同情して結婚をしてしまい、残酷な状況に束縛されることになってしまうのである。
その国の結婚制度とは、一種の商取引であり、結婚の契約書面が交わされたならば、それが終生個人を束縛することになっていた。いわば、人身売買の発想がルーツのシステムであったのである。そんなこととは、人生における経験不足のイナンナにはとうてい理解できていなかった。
結婚生活の甘ったるいまやかしの噂が巷に垂れ流され、一 種の蟻地獄を形成していたからである。
比較的易行道を歩んできた両親にも、よ もや家庭に入った者が破綻をきたすことがありうるなどという考えはなかった。
だが、アダルトチルドレン症候の夫は、次々と生まれてくる子供の育児に関心がなく、ただ自己満足のために日々を費やした。気に入らなければ暴力を奮い、家に入れた生活費は高価な被服費と遊興費に費したために、彼 女の両親が生活費を穴埋めするという悪循環に陥った。
夫の実家は、妻のやりくりのなさをなじることはしても、一家に対して世話をやこうとは一切しないという冷酷かつ打算的、日和見主義的な家庭であった。
そして、夫たるや仕事だけはまじめにするから始末におえない。つまり離婚したくとも正当な理由が表にでてこないのである。
昼頃に出社し、夜遅く帰る日々。彼女は子供ら三人のスケジュールと、それよりも優先させねばならない夫のスケジュールに挟まれて、慢性的な睡眠障害を起こしていた。
極めつけは、子供が寝静まってからも音響映像機器を大ボリュームでかけ続けた夫が、いよいよ寝る前に最後の性的奉仕をイナンナに求めたことだった。
彼女は無理やり起こされ、睡眠を妨げられ、事が済んだ後夫は寝るが、子供たちがさみだれ式に小用に起きるので付き添わねばならず、眠る時間がないという状況にあった。
それは苛酷な断眠の刑に等しかった。
こうして、彼女は慢性的な体調不良にさいなまれ、しばしば憑霊現象を呈して周囲を驚かせていたが、真相は睡眠障害による精神症状であった。
両親もイナンナの根からの霊媒体質によるものと思いこみ、仕 方ないものと思うにかまけていたという悲惨な状況がそこにあった。
夫の実家は、欠陥妻を差し出されたことをなじりつづけた。すると夫も、イナンナの欠陥を言い出すようになる。そこに彼女の家の宗教観が、さらにありもしない贖罪の構図を作り上げる。
イナンナも、私がすべて悪い。あのとき八角堂に行った人物を取り違えたことが罪の原因だったと、本末転倒するほど疲労困憊していた。
それらすべて、あの八角堂の夢の神話が現実に投影したのかもしれない。
彼女は、自らの一生を、幼い頃の夢の神話を通してひととおり学んでいたのだろうか。
ちょうどノストラダムスが象徴詩にしたためたように。
このとき、事 はそんなに悠長なものではなかった。精神障害が現れるのも間近であった。
中でも精神分裂症などは、肉体は生きたままで魂が去る状態を意味する。それこそ死とは悟られぬ死であり、取り返しのつかない事態になるところである。
この裏には闇大后などがいて、広目天を別の繁忙状態にして守護のない状態に置き、手下の諸天を使い、イナンナを生きながらの死という状態にし、弁天らに文句を言わせることなく、この世への評価も満足にできぬ状態に置こうとしたのかも知れない。
危機一髪のところ、ネアンは精神面のカウンセリング機能を果たすこととなった。
電脳的手段によるしかなかったが、イ ナンナはそのやり取りのうちにネアンの心の広さに包まれるようになり、急速に精神状態を回復した。これより先、イナンナに別の諸天からの守護が加わるようになった。
「私は、過去に、不思議な夢を何度も見ることがありました。
それは速吸の海に面したところに突き出すように設けられた、八 角堂に関わる夢なのです。
私は、幼い頃から、海辺を逃げていく夢を見ました。
何か大事な袋を肩にかけているのですが、袋 の破れ目から中のものが光を放っています。
それが何かはわからないのですが、誰か必要な人に渡すために、追っ手から逃げるようにして早足で歩いているのです。
そして、決まってたどり着くのが八角堂なのです。
はじめの夢の何度かは、八角堂の入り口の扉にもどの窓にも鍵がかけられており、中には入れませんでした。そして夢が覚めるのです。
しかし、あるとき扉が開いており、そこから入ると、今度は中に閉じ込められてしまったのです。
暗い部屋で、拷問を受けていたようです。子供の頃のことですから、何をされていたかその時は知る由もなかったのですが、今から思えば、大人の辱めに類したことであったように思います。
このようなことを申しましたら、あなたは興醒めされるでしょうか」
イナンナは、ネアンの気色をうかがうように、謙虚だった。
ネアンは、いちおう気遣った。
「いやいや、そ んなことはありません。夢 の話は、有名な心理学者も申しているとおり、心の底にある難しいもの、あるいは願望とかも・・あ、いや、失礼」
「いやですわ。私はそんなことを言いたいのではありません。誤解されるようなら、私も困ります」
「あ、なにもそんな。その程度で何が分かるというものでもありません。ご心配なく」
「ではその続きの話をいたしましょう。
私が10才になった時の夢で、この続きにまったく新しい展開があったのです。
私は八角堂の中をくまなく探険し、ど この窓もしっかりと閉じられていたことをその時覚えておりました。
その二階に佇んでいたときです。三 階のほうから階段を降りてくる人物があったのです。
それは青年で、私 のところにつかつかとやってくると、い きなり私を抱き締めたのです」
ああ、やはりかと、ネアン。パソコンの画面を見ながら、複雑な顔をしてしまう。
「そして、『長い間待たせたね』と言ったのです。
その後、私は窓が開くのを見ました。
そして、その人と共に、ふんわり空を跳びながら窓の外へ、燦燦と輝く陽光のもとに出ることができたのです。
眼下には、大きな橋が向こうの島までかけられた紺碧の海がありました。
その場所は、とある公園にある八角堂というところであることが分かっています。
建物の名も知らない頃から、夢に見続けてきたのです。
現在では大橋がかけられています。
八角堂の扉が開くまでに見た夢の中には大橋はなく、い つもどんよりとした曇り空が印象的でした。
大橋がかかり、いまようやく時が来たのかもしれないと思っていたやさき、あなたのホームページを見たのです。
それでもしかすると、夢の青年は、あなたではないかと思いまして・・」
「私が?」
「憶えてはおられませんか? 八角堂のこと。小学校四年生当時の私のこと。
今から25年前、あなたが25、6才ということなら、 私が見た青年に近い風貌をしておられたと思います」
ネアン、思案すれども、記憶にない。問題の八角堂には行ったことすらない。
海沿いの道を行く際、変わった建物だなあとしげしげ見ることはあっても、興味したことはなかった。
「うーむ。分からんです。が、閉ざされた記憶があっても、夢に見るまでは分からんということもありますから。私も、宇宙人との会見は本当にあったことで、夢で記憶を紐解いたものと思っております。機が熟さなければ、思い出すことも難しいのかもしれません」
「もしかすると、記憶が戻るかもしれません。
一緒に行ってくださいませんか。
私は今の人生、まさに八角堂に閉じ込められていたときのように、絶望の中に閉じ込められています。
もし間違っていても、それはそれで諦めがつきます。
間違っていなければ、扉が開くと思います。
私はそれに賭けようと思います。
どうか、お願いです。助けてください」
イナンナは、画面を隔てて泣いていた。
イナンナにしてみれば、まだ会ったことのないネアン。
夢に出てきた人と照合する鍵は、イナンナ自身の記憶にある。
まずそれが一致すれば、可能性は高い。
次は、ネアンが何らかの記憶を持っていて、思い出すかどうかなのだ。
その次は、イナンナが信念として持っていることが正しいかどうか。
つまり、この人物によって、真に自らの境遇が打開できるかどうかなのである。
「分かりました。会ってがっかりされるかも分かりませんが、一緒に参りましょう」

秋晴れの八角堂

二人ははじめて、待ち合わせて、A駅前で出会った。
イナンナが長い髪を普通に伸ばした、目が丸くも切れ長が特徴的な美女であったため、ネアンは驚いた。背丈も自分と同じくらいで、女性にしては高いほうである。
またイナンナは、ネアンの風貌に夢の人物像を重ね合わせて、似ていることに胸を弾ませた。
その日は秋晴れ、雲が少し浮かんでいる程度の行楽日和だった。
現地近くで食事をしてから、八角堂に向かうこととなった。
公園を望むホテルの高みにあるレストランから、こ れから訪問する場所を確認する二人であった。
「あれですね。大橋の橋脚に比べて、なんと小さいこと。駐車場があのへんにあるようなので、車を移動します。そこから少し歩けば、すぐでしょう。ああ、海はマリンブルー。ところどころエメラルドグリーンですねえ」
「いいお天気で良かったです」
「もう一度聞きますが、本当に私でいいのですか?」
「面影がそっくりなんです。たぶん間違いありません」
ネアンは光栄なような気がしないでもない。
食事を終え、車を公園の駐車場に移動した。
「平日だからでしょう、がら空きですね」
見たままにしか言えないネアンである。
二人は工事中の塀が幾つも立ちはだかる中、ようやく八角堂への歩道を見つけて、入っていった。

邸内の庭に入ると、イナンナはいきなり手を繋ごうとした。
どうしたことかと驚き、イナンナを見るネアンである。
「ここに入るときは、こうしていたいのです。懐かしいから」
「分かりました」
中で入場券を買い、案内板で指示されたコースを辿る。
他に誰一人として、入場者はいない。
しつらえられたように、二人だけの空間であった。
八角堂に入ると、開かれた窓から涼やかな風が注ぎこんでいた。
「ここの空気は清々しいです」
外気は暑いくらいであったが、中は日陰であり湿度が少なく、快適であった。
八角の内面のそれぞれに、力強い墨で書かれた額が掛けられていた。
天井中央にある彫刻は、赤と金の正八角形の木枠の中に、「龍」であった。
「この場所なんです。何度も夢に見たのは。
この場所、この光景もよく覚えています。
その時、窓は開いていませんでした。
それから、こ の建物のどこか暗いところに監禁されていたこともしばらくあったのですよ。
隣の建物なんでしょうか」
「それでも思い出の場所というのですね?」
「ええ。辛かったですが。
ただ、窓が開いたあの時だけを思い焦がれてきたのです。
あのとき、私は助けられたのです。
いま、あの時の青年はここにこうして、本当にいたことがわかりました。
この現実が、過去の夢の再現なら、あなたとこうしていることにより、解放が実現されると思います」
「あなたは、二階にいて、私に似た青年に出会ったのでしたね。どれ参りましょう。うまく行くかどうかは分かりませんが」
二階も、一階とほぼ同じ造りで、ただ八面に掛けられた額のそれぞれと天井の彫刻が異なっていた。
天井の彫刻は、「鳳」であった。

女はその時、ネアンのすぐそばに寄り添ってきた。
そして右腕を抱えるようにして、ネアンの肩に頭を寄りかからせた。
ピンク色のツーピースが、ネアンの気持ちを揺るがせた。
「君。よければキスしましょうか」
するとイナンナは、急に身を縮め、いやという素振りをした。
「しかし・・」
「だめなんです。そんなことをすると、すぐに別れてしまうような気がするから」
「そうですか」
「今はただ、手をつないでいてください」
「じゃあ、そうしましょう」
ネアンは、恋人がよくするように、片手の掌同士を合わせて、「さあ、行こうか」と言った。
「いいえ。もうしばらくここで、こうしていさせて」
「いいですとも」
ネアンはふと思った。
25年前の夢の自分は、三階から下りてきたという。
「三階はどうなっているんでしょうね」
ところが、三階に至る階段は、立ち入り禁止となっており、真っ暗であった。
三階の窓はすべて閉じられているのだろう。明かりの漏れもない。なるほど、これならば、昼間でも真っ暗闇になる。イナンナが夢で見たものとはいえ、窓が閉められればまったくの監禁状態だ。
謎めいていることは確かだった。だが、なぜ三階だけが閉ざされているのか?
「少し上がってみましょう」
二人は、中段まで上がってみた。
ネアンには、三階の同型の部屋のわずかな光から、額の一部が見え、ほぼ全階同じデザインであろうと推測できた。二階に戻り、もう一度、この場所だったという所で、手を握り合った。
「これで夢の内容を再現できたのでしょうか」
「きっとできました。私は本当に嬉しいです。
三階は、私たちの夢がかなった時に公開されるような気がします」
ネアンは、まだ半信半疑ながらも、開かぬ窓を開けるのは自分かも知れぬという奇妙な英雄意識をもった。
夢と現実が、交錯する場所のような気がした。
南面する窓辺から、内 海を眺めながら、お 互いのことをしばらく語り合う二人であった。
「実は私は、実体が人間ではないと思うのです。
昔、人間として生きた誰かに助けられた思いがあり、その方を追って人間界にやってきた感じがするのです」
「それが、まさか、ぼくだと?」
「きっとそうなんです」
「うーむ。そう言えばあなたは・・・乙姫さんに似ているなあ」
突然、ネアンは思いついたように口にした。
「えっ? 乙姫? どうして?」
「うーん。なんとなく、目元といい、君の顔立ちといい。
お伽話の乙姫様はこんな感じだなあと、昔から想像していたのです」
「実は私は、亀なんです。昔から、そう思っていました。顔も亀に似ているでしょ。ふふっ」
「ぼくは浦島太郎で、君を助けた。それで龍宮城に連れて行かれ、いいもてなしを受けた。
君は亀というけど、乙姫さんが変身したんじゃないんですか?」
「前世にそんなことがあったのかな。また同じことを今生で繰り返しているのかな。
あなたが、また助けてくださるのかしら」
「さあ、どうなんだろう」
ネアンはまた思う。
「天上人の宴」という題の物語を作り、宇宙人との会見の中で、イグアナ族の彼女が出来たなどとまことしやかに書いてきたのであった。そうして、夢とも現実ともつかぬ神秘性を自分に吹き込んできた。
しかし、なぜそのときの彼女が爬虫類なんだ?
今日を予言したようなシンクロではないか。
だから、イナンナが自分は亀だと表現したときに、おやっ!?と思ったのである。
イナンナは、帰る道すがら、再度、10年前に臨死体験をしたこと。それが自分にとっての最も鮮烈で重大な体験であったことを語った。その中で自分の素性と、今生にここに生まれて来た理由の一端を知ることになったことなどをである。
それを聞いてネアンは、イナンナのことを、何らかの神の生まれ変わりではないかと思った。この人の過去世は、決して人間ではない。いや、人間としての輪廻はあったかもしれないが、主体は神であったと。
「君の実体はもしかしたら、乙姫様の本体の竜神様じゃないのかな?」
「竜神? そうなのかなあ」
そして、その日はお互いの印象を胸に、再会を約して分かれたのであった。
ネアンは、久しぶりに複雑な思いを持った。
夢は単純に夢物語として語るだけで良かった。
現実世界に向き合うために、ほ ら吹きネアンとでも命名すれば、当 り障りも少なくなる。
しかし、ここにある現実は、新しい不思議世界へのいざないのようであった。
夢でしかないと思っていた宇宙人以上に、現実感と臨在感が目の前にあった。
かつてあった謎解きを楽しむ心が再燃せざるをえないネアンであった。
ネアンは八角堂の状況を謎解きしてみた。
夢で彼女の居た二階というのは、一階の天井彫刻が龍であることから推測して、「龍の間」というべきである。
すると、おりてきた青年が定住していた三階は、二階の天井彫刻からすれば、「鳳の間」ということになる。
彼女が龍なら、自分は鳳ということにならないか。
「諸葛孔明は伏竜なり。○○○○は鳳雛なり」と言われたほどに、聡明高徳の軍師であらばこそ、そのような神獣に譬えられても相応しい時代があった。
愚かな人生を生きている自分が、霊鳥の鳳に対応する? そんな馬鹿な。
同様に、隷属の人生を送る彼女が龍とすれば・・・いや、釣り合わないわけでもないかな。
ふと、以前どこかで聞いた話がある。俳優の見●晴は、神が修行するために生まれてきているため、下積み人生で過ごし、ギャンブル運に見放されるという運命だという、ある霊能者の話である。
うーん。そうならば、ないこともないかなどと思っているどこまでも愚かなネアンであった。
またこんな謎解きのカードもあった。
鳳といわないまでも、ネアンは昔、祖母が高名な占い師に占ってもらったときに、自分のことを「一番良い松に留まる鶴」だと指摘されていたことを思い出した。
占い師がよくありがちな、性 格を以って動物のタイプに分けてする形容であろうと思っていたのであったが、このときばかりはストレートに意味が通じてくるように思えた。
彼女が亀で、自分が鶴。鶴亀の譬えはとても縁起がいい。
瑞兆を表すこの形容が、これからずっと続いてくれたら良いわけだ。
言葉の意味に謎があるとされるわらべ歌の「鶴と亀がすべった」というフレーズも思い起こした。
「すべる」とは、すべってひっくり返るというようなことではなく、「渾る」、つまり一つになるということである。(統べる、統一する)
もしかするとあのとき手を握り合った行為は、「渾る」行 為だったとは考えられないか?
その歌の解釈として、その頃無名のデビューをした著者の書いた「弥●●臨」という本には、鶴と亀が渾った行為の結果として、火の鳥が復活すると書かれていた。
しかもその著者は、ネ アンがかつて出版した本に掲載した最も重要な発見図形を引用していたのだ。
それをネアンの友人が見つけ、こ れは無断引用だろうから抗議したほうがいいと教えてくれたために、書店からわざわざ取り寄せた本でもあった。
ネアンの発見図形は、このわらべ歌の解釈を施す合間に載せてあった。
まるで、この童謡とその解釈が、ネアンにとって大きな意味を持つぞという意味に響かざるを得なかった。
問題は、「鶴と亀が渾った」結果、どうなるかである。
「弥●●臨」には、後ろの正面に出てくるのが、火の鳥であると書いてあった。
イナンナが夢で経験していたことは、八角堂の扉が開き、二人して表の世界に飛び出すということだった。
何か象徴的に同じことを指しているように思えて、背 筋をぞっとさせるネアンであった。
「弥●●臨」の作者は、他著を再び出版することはなかった。
こうした思い付き話も、その時点でイナンナに教えるようにした。
そのようなシンクロに満ちた話を糧にするようにして、イナンナは精神力を回復し、体調を戻していった。

火の鳥復活

そんな時、歴然とした大事件が起きた。
××××年10月6日午後1時30分、鳥取の日野を震源とする大地震が起きた。
その激震にもかかわらず、死者が一人も出ないという奇跡的に特異なものであった。
その日は、ちょうどあの会見の日から丸9日目であり、地震発生時刻もちょうどその頃にあの二階で、意図して手を繋ぐ行為が行なわれていた時刻であった。
時間数に直すと、216時間。これとても、2+1+6=9となる。
またこの大地震の日が、陰暦の九月九日(ひのととりの日)であるという情報が、イナンナの友達Mさんからもたらされた。
鳥取の日野町(とりとりのひの)、ひのととりの日、いずれも火の鳥の関わりを明示している。
単なる語呂合わせではない。強烈などこかからの啓示を思わせた。
とおりゃんせのわらべ歌にすら、真剣な解釈者は、封じ込められた意図を見ようとするほどだったから、鶴と亀がすべったの場合は、いく様にも解釈できる類の生半可な話ではない。
九という数も、イナンナが信奉する大本教系の宗教観からすると、九つの神が関わる数として、重要視されるものであった。
しかも、ネ アンが出版したときに起きた何千人もの死者を出した大震災と比べて負けないほどの規模の大地震にもかかわらず、死 者が出なかったことはあまりにも不思議であった。
何かの守護摂理のもとで、とてつもない象徴的出来事が起きたという気がした。
半信半疑だったネアンもこれらの謎解きのリンケージには驚いた。
実際、一人一つの人生において、これほどまで不思議に関わる者もいまい。
UFOの次は、神 の世界に関与する自分を感じて、背 筋をぞっとさせるネアンであった。
そうするうち、イナンナの身辺に急な変化があった。
あれほどイナンナを苛酷な睡眠障害に追い込んでいたはずの夫が、逆 に不眠症にかかり、自らの実家に帰るという事態となったのだ。
原因は、イナンナが側に居ると悪夢を見てならないというのである。
「おまえのおかしな物の考え方がなくならないと、家には帰れない」とまで言いはじめたのである。
明らかに、気が萎えていた頃から比べてイナンナは、霊的な精神活動を回復し活発化していたのであった。
このお蔭で、イナンナは深夜の異常な義務を果たさずともよくなり、安眠を味わえるようになった。
このことが体調回復になおさら役立っていることは明らかであった。
そして、やがて間もなしに、夫の側から、離婚したいと言い出してきた。
「俺を取るか、そのつまらぬ物の考え方を取るか、どちらかに決めろ」とすごんだ上だった。
イナンナは、後者を取ると言い切った。
三番目の子供を産んだのが、夫と夫の両親に不都合だと言われ、かつて何度か離婚話も夫側から出たことであったが、別れに対して先行きの自信がなく、気が萎えていたゆえに気持ちが定まらず、決めかねずにいた了承を、今 回はきっぱりとしてのけたのであった。
あまりにも早い展開であった。
離婚の手続きも、その後、短期間のうちに行なわれた。
イナンナは、子供3人すべてを引きとるという不利な条件を飲まされたが、誤って冒した結婚という恐ろしい契約を解除するのに、不 利も体裁も構っておれなかったのである。
かえって、家の中に浪費家がいなくなったことにより、暮らしぶりも良くなった。
その国の結婚制度というものは、あまりにも不合理なものであった。
結婚というペーパー契約は、一生涯に渡って、主として女という弱者の側を傷めつけるものになることが多かった。
結婚するに相応しくない者は、男女どちらにもあり得るが、仮面の中に隠されていて、初めは読めないものである。そして、望みもしない状況を余儀なくされて後で後悔することが多い。
そんなときに、も っと寛大な離婚の道が用意されていて然るべきであろうのに、天 ( 仙)の意向をかざす者たちによって法が運営されていたから始末におえない。
人権意識のない自己中心的な大人の格好だけしたアダルトチルドレンが野放しになっているお粗末な状況がその国にはあった。
解放された自由に、イナンナは思いを羽ばたかせた。
八角堂での会見が、夢の窓を開かせるもとになったと信じることができたのである。
信仰深いイナンナは、ここまでの経過にも、神々の加護と恩寵を見て取った。
それは彼女の傾倒する様々な神話の中に生きることでもあった。
イナンナはその国に昔から伝わる神話でもあるお伽草子の中の浦島太郎や梵天国ような話を、自らの宿命を書いたものと考えていた。
助けられた亀とは自分であると。
また、鬼のはくもん王にさらわれた梵天の娘が自分であると。
それもこれも、自由のない境遇に置かれるに至った不遇を嘆いてのゆえだった。
いつか、浦島が現れ、いじめられていた亀を助けてくれる。
いつかかつて愛し合った玉若が助けに現れる。
そして、最後は、蓬莱島で、鶴亀となって永遠にすごすというあの世物語り。
また、天 橋立を挟んで、知 恵の文殊と成合観音となって終生祭られるという垂迹物語り。
どちらも、ネ アンの生まれ故郷の丹後が舞台の話であったことも不思議な一致であった。
これほどのシンクロ。そして現象の展開。いつの日か、イナンナは、お伽草子のこれらの物語の大団円までを演じ切ってくださいとまで、ネアンに言うようになっていた。

「御伽草子に『梵天国』という話があります。
右大臣が、清水の観音に願って、玉若という若君を授かるのですが、
笛の名手で、その徳により梵天王の娘をめとり、彼女の助けで、天皇の難題を果たします。しかし梵天国の王宮で、羅刹国の王を助けた為に、最愛の妻を鬼に奪われてしまうんです。玉若は羅刹国を訪れ、妻と連れ立ち、ようやく故郷へ逃げ帰ります。その故郷というのは、丹後の宮津!
つまり天橋立にある、九世戸の文殊が玉若、成合の観音がその妻だというのです。
この話はわたしももう少し詳しく読みこもうと思っています。
もし恩師のいうことが本当なら、御伽草子は邪神、つまりあの一つ目に、
経綸を読みきられないように、暗号化したものです。
実はわたしは、この話をものすごく小さい時から好きで、玉若をあなたにたとえて、何度も何度も今思うと、読んでいたのです。
自分にいまさらながら驚いています。
また山人の伝承に、山鳥に化けた山の神が、乙姫と契りを結び、姫の懐妊を知った竜王は怒って乙姫を追放、乙姫は山の岸に流れつき、二人は再会するという話があるのです。
今でも猟師が、山鳥の捕れるのを願って、乙姫の家来のオコゼの干物を、まじないとして隠し持ち、山鳥を誘い出す風習のある地方があるそうです。
わたしたちがあるパスワードを入力したのだとすれば、きっとそんなパスワードは他にもいくつかあって、他の方がその役目をそれぞれ果たしてしておられる気がします。
わたしたちの預かったのは、その一つのカゴメのパスワードだったのかも、カゴメの謎はいろいろ言い尽くされていたけど、まさかこんな手段だとは、敵どころか、味方も欺けるほど、わざと普通人に生まれたんです。
それがばれない一番確実な方法だもの。
しかも何度もの転生の間に、必要な知識と技術、夢見の力などは、身につけさせられていたようです。
しかも照合できる手持ちのカードはそれぞれに与えられていた」
「なんということだ。ぼくらの持ち合せるシンボルが、これほど日本の民話によって支えられているとは。
ばらばらに見える民話も、た ったぼくら二人の存在だけで時間を超えて結びついてしまうじゃないか。
ぼくらは、そういう役割をしにここに来たのか?
ぼくらは計り知れない何世、い や何十世代にも渡る大きな計画で動かされていたことになる」
「ネアン、物語はこれからまだクライマックスです。
どうかわたしを宮津に連れて帰る大団円まで、演じきって下さいね。
いつまでかかることかわからないけれど。
このプログラムを組んだものは、あの一つ目を欺く為に、あらゆる方法を考えた方なのですから」
そんな光栄な男の役柄が与えられたことに、やはり自信なく、ただ神に祈るしかないネアンであった。

ネアンは、そ れまでテレフォン友達として付き合っていたカンナオビと別れることにした。
カンナオビは、ネアンがイナンナと出会ったことだけで、その後何もなかったとは思えない。
イナンナもカンナオビの存在を八角堂の日に知り、以 後ずっとやきもちをあらわにする。
男を一方で所有しながら、もう一方でも独占したい生き物が女らしい。
いっぽうネアンは、律儀にも二人の女性を股にかけることなど想いもしない。
というのも、こんな贅沢は、今までなかったことだからだった。
カンナオビは所帯の中にあり主婦の座にあった。
芸術の分野に恵まれた才能と資質を発揮していたが、家 人の資力が支えているのである。
それを犠牲にしてまで、耽美の刺激による想像力の伸長をとることのできるカンナオビでもない。
ネアンは、イナンナの身重さと、精神の支えになってやれる度合い、そしてカンナオビとの不毛の成行などを配慮し、カンナオビに別れを告げた。
それに対して、何度かのやりとりの後、ようやく別れを仕方ないこととして受け入れたカンナオビであった。
惜別のカンナオビの歌。

春蘭のほころぶ音の幽(かそけ)しき もし聞きしかば 君ぞ参らせ

次にネアンの前に立ち現れたのは、キタロウであった。
キタロウはネアンを同行して、驚異的なUFOの撮影をおりにふれ行っていた。
その道中、彼は宇宙人と交信して見せ、ネアンを唸らせていた。
ネアンが十分に、彼の思想的なものを受け入れていると思ったのである。
そんなときにイナンナとの関係がうまく行っていることを、ネアンは告げた。
そこまでは、キタロウは何も言わなかった。
ところが、ネアンが結婚も考えていると言ったとたんに、突然、宇宙人がキタロウに罹ってきて、「それはぜったい良くない。必 ず早死にする」と 必死で言い放ったのである。
しかも、「掟破りだ」とも。
そこでネアンはキレて、喧嘩となった。
以来しばらく、キタロウとは交流を断ってしまったのである。

それからややあって、ネアンがイナンナと褥を共にするときがきた。
互いの存在を神話の中に確かめ合う文のやり取りがしばらく続いた後、互 いがそれぞれにとって重要な意味を持つ人であると心から認識したとき、二 人は柔らかいベッドの上で転びまろびし、禽獣のごとく戯れた。
ところで、鳳龍が出会い、鶴亀が渾り、その結果火の鳥は羽ばたいたのか?
地の封印を解いて、脱出したのか?
それが解かれたとして、どう現象上に作用するのか?
やがて、暦日上の節目となる新たな時代が来た。
その前後に、政府は内閣不支持率がかつてないほどのていたらくぶりを見せ、財政赤字の額が、破滅預言的な666兆円という数字を打ち出した。
その数は、あの謎の著書「弥●●臨」にも詠われた弥●(三つの六)でもあり、世の裏側を支配するという秘教組織が、事を起こす時のステイタス数字でもあった。
なにも好き好んでこの数にあわせるなよといいたくなる、ま た妙な期待のこもる吉凶の斑数として、識者に恐れられていた数字であった。
ネアンは思った。
666はひとりでになったというより、画策された数字である。
それに呼応して動くのは、その数の発祥のもとになった勢力である。
秘教組織、それは革命を優先する勢力。世界革命の末、世界政府樹立を進めるという謎の勢力。
だが、世界の破滅原因になる力。
そのあらましが、日本神話には書かれている。
天神に核兵器を使用されて降伏し、国 を明渡す際に、国 神は代理統治させてもらえれば、いさかう神もいないだろうと条件を持ちかけるくだりがある。
密約でなされた国譲り契約は、天神側が権利ありと思っている限り、いずれいやがおうでも行使せねばならない。
国の経済破綻という最悪のシナリオも、こ の国の人をいかに納得づくで支配するかという点に知恵を絞ったものでしかない。
この国は、敗戦直後からこの勢力の計画に取り込まれている。
それらのことは、彼がかつて出した出版本に書いたところでもあった。
その上には、天仙の仕組もうとする終局計画があった。
その終局の反動によって、新 たなサイクルを取り戻そうとする恐ろしいたくらみである。
新年の3月には、いきなりの経済基盤を揺るがす株価下落が始まった。
倒産企業が目白押しとなる経済パニックの始まりとなりそうな気配となった。
内閣不信任案が立て続けに出された。
そして、当時の予測的展望ではあったが、選挙に大敗するであろう●党。空回りするであろう国会。
終局に際し、ようやく政権を明け渡すふりをして責任転化を図る亡国の徒ども。
それでも、国民は昔からではあったが、為政者には逆らわずお任せ主義に徹する。
それが逆に功を奏することもある。
世情はさほど不穏な空気に包まれずに済み、本 来なら選択を加速させるはずの軍国化の動きを鈍らせることになった。
時の兆候は、R国の宇宙ステーション・ミールの落下としても現れた。
南の海に青い星として落ちたミールは、太 古から保守的な生き方を尊ぶホピ族の神話予言にある、世界の終局の来たことを示す青い星の霊人の象徴でもあった。
長老衆は、スサヌウの再来間近と胸弾ませたであろう。
その3月末には、千数百年前に作られたキトラ古墳で、火の鳥”朱雀”がまさに飛び立とうとする姿で描かれたものが見つかる。
火の鳥復活の兆候はあらゆるところで揃っていた。
それを感じたイナンナの歌。

この胸の 一番奥の 戸を開けて 黄金の鳥 今解き放つ

狼狽する天仙

666は、弥●●臨を促すステイタスでもあることを、天仙と秘教組織は見落としていたのかもしれない。
「天尊殿。得体の知れぬ生き物が地中のマグマの中から脱出しました。それはかつて、文明が滅んだ際に現れたことがありますが、た いがいは文明を復活させるための原動力を与えたところのものでした。ところが、まだ文明が維持されている今、動き出すとはいかなることでしょう」
「まだ潰してはおらんし、いま直ちに潰すつもりもない。密命者が出会ってしまったことによる異変であることは紛れもない。この生き物は火の鳥と呼ばれている。だが、未だ解明されてはいなかったな」
「そうです。解読中のエルモナイトプレートに、よ うやく登場し始めたところの生き物です。まだよく分かってはおりません」
「要員を倍増して解読を急ぐよう申しつける。それから梵天との会談を整えてくれ。いったいどういう了見なのか確かめよう」
「ははっ」
「また、このタイミングのずれがどのような影響を持っているか、環境調査班、直ちに調べよ」
「かしこまりました」
いっぽう、緊急要請により設けられた蓬莱島の賓客の間である。
天尊は梵天を見つけるが早いか、着席する前にいきなり切り出した。
「あのときは、失礼いたしましたな。
今回は緊急の用向きで、会談を開いてもらうことにしました。
梵天殿、いったい何が起きようとしているのです?」
「火の鳥のことですね。あれは文明の滅亡に際し活動をはじめ、滅亡から立ち直らせる働きを持つ霊鳥です」
「だが、予期せぬタイミングで動き出したため、も うそのような時なのかと訝っております。まだまだ地球の文明は見所があり、存続させる努力をいたすつもりのに、早とちりにも何ゆえ今時」
「この世界の存立基盤、つまり宇宙そのものの環境が変化したため起きた、いわば生態系の異変によるものと考えられます」
「ほう。そのようなことなのでしょうか?では、ど んな環境因子が変化したといわれます」
「前に申しましたように反作用が過度に溜まってきているのでしょう」
「はは。そのようなことはまだまだ。許容限界の70%にも達しておりません。我々も観測は怠っていないし、計算もしっかりできております。滅亡するにはまだ早い」
「火の鳥は、現象上の滅亡の時点を捉えて動くのではありません。もっと深いところを感知して動きます」
「まさかそんな。今まで協力的に動いたと思われる火の鳥が、いきなり逆らうような動きを取るものでしょうか」
「個人的な好き嫌いで動くものではありません」
「では、はっきり言おう。密命者の出会いに、あなたは何か仕掛けられたはずだ」
「あなたは、この二人の密命者の過去を探られましたか?」
「いかにも。探らせている」
「では、彼らがどの時点で出現しているか、お分かりですか」
「うっ。では、この二人が常に・・」
「その通りです」
「ではやはり図ったな」
「ただし、今までもそうであったように、世界を利益するために現れるようになっているのではないですか」
「利益? 誰の利益です? 天仙あっての世界なのですぞ」
「その議論なら不毛です」
「うっ。で、何が起こると?」
「文明の再生と復活です」
「文明の支配者はだれあろう」
「文明はあるようにあるのです。個人的意図に関わるものではありません」
「馬鹿も休み休みにしてくれ。この世界のソフトは私が作ったのだ。いわば、この世界は私のもの。そこに介入するようなことはしてもらいたくない」
「火の鳥は、あなたの世界のソフトが動いている文明基盤の節理なのです」
「うーむ。水源を握るお上の権利意識というか。苦々しい。私は梵の系列から離脱を表明したい」
「これらのノウハウは、私にはなかったものです。あなたを含め、この世界を作った者たちの知恵の所産でしょう。あなたはそれをよく理解せず、奪い取ったのではありませんか」
「なにお。言わせておけば」
「しっかりと理解して臨めば、様々な利益的な仕組みが活用できたのではないですか。
あなたはそんな中で、支配権を握ろうと戦をしてしまい、勝ったには勝ったが、多くの協力者をなくしたのです」
「失礼千万な話。もう、けっこう」
天尊は前と同様のスタイルで、振り向きもせず帰ってしまった。
天尊は宮殿に帰りつくと、さっそく調査班の長が報告に来ていた。
「ええい。何事だ」
「エルモナイトプレートの解読で、火の鳥の製作過程が分かりました」
「そんなものは、もうよい・・いや待て、どんなことだ」
「はい。火の鳥は、生命系が窮地に陥った時に発動される仕組みと書かれております。
生命全般に関わる一大事のとき、悪しき弊害を取り除き、生命の種を保存して再生の過程に繋げる役割だというのです。設計製作者は、クロノス。今にいうオオクロヌシのことと思われます」
「ごほっごほっ。もうよい。闇太后を呼べ」
「ここにおります」
カーテンの陰から、闇太后が現れた。
「例の計画を実行せよ。速やかに」
「はい。かしこまりました」
入れ違いに太公望も血相を変えて現れた。
「一部始終、事成りの玉で拝見しておりました」
「砦を固め、いざ決戦に備える」
「今すぐ決戦は困難です。時を稼ぎ砦化を急ぎ進めましょう」
「うむ。進行はお前に任せる。しかし、苦々しい密命者めらだ」
「他にどんなカードを持っているか分かりませんが、今 までどおりにしておくしかありません。殺ってしまえば、すぐさま戦の口実になります。こちらで二人の過去のすべてを漏れなく調査しますから、いましばらく。
それから、戦となれば、弁天のソフトもどうなるや分かったものではありませんから、梵天がやすやすとうかつな行動を取るとも思えません。また、いま弁天のソフトを活用できているのは我々しかいないという現実もあります」
「天仙を廃して、我々のノウハウを奪い、一から立て直すことも考えられるぞ」
「そうなれば、もはや奥様の計画に委ねるしかありません」
「そんなこともあろうかと、並行して作業を進めさせておる」
「ははっ」
それから小半時ほど経った天尊の宮殿。太公望が天尊の居間に入ってきた。
「失礼いたします。分かりました。
あの密命者たちは、必ずしも文明の滅亡時のすべてには立ち合っておりません。
たとえば20億年の生命史のある地球においても、数 限りない種族や大文明の興亡がありましたが、そのほとんどで火の鳥は現れたにもかかわらず、彼らは関わってはおりませんでした。
人類史時代においても、ムー、アトラン、スメール、ヤマトの際には出生したものの、ゴンドレ、スカンジ、スベロムなどの広域主要文明の滅亡のときには両名とも生まれておりません。
ただスカンジのときは、イナンナのみが現れております。
またヤマトの際に二人は会見しているものの、火の鳥は現れておりません。
拾得されたデーターではこのように法則性を見るにいたっておりません。
何か他に因子があるかどうかは継続調査中ですが」
「常時立ち会ったなどと、梵天は嘘を申したというか?ならば、その嘘をもって相手の出方を削ぎ、会談を紛糾させることもできる」
「プレートのほうからの報告では、キーワードがそろった時点で作動する節理とか。
まずは鶴と亀。この二人の持つ印章が、それぞれ鶴と亀なのですが、それ以外にも鶴亀の印章を持つものが居た模様です。
それゆえそういう意味に捉えれば、嘘とは申せなくなります。
梵天のこと、そのように申すに違いありません」
「印章であるだと? 子供だましなことをしおって」
「付け加えますに、さらにそこにキーとなる環境が整ったときとなっております。
それはカゴメの結界。ご存知のように、神以外の諸霊は不可侵で、神もいちど入れば取り込められてやすやすと出ることができないという魔方陣です。今 回は、八 角堂でした」
「それは我々も封神のときに暫定的に使った手段である。か らっきし力が弱いということで、強力な別の手段、まんじ固めや瓢箪結界を編み出したであろうが」
「おそらく当時のクロノスのこと。有効と考えたのでしょう」
「なんでも幾何学好きなやつだったから、こ んなところにも使おうとしたのであろうが、禽仙が弱かったのは、弱 い防壁しか用意できなかったからだ。そ の名残を使うに事欠き、こんなところに使うか」
「カゴメも幾何学的に三角、四角、五角、六角、八角、十角、十二角、十六角という場合がありました。
アトランのときはピラミッドの中。
ムーのときはストーンヘンジの中がターゲットポイントだったという具合です。
またそれぞれの構造物は、製 作者に予めそのような意図があって作り上げられていたことも判明。
つまり、下準備する者がいつのときにもいたということです。
しかし、その意図を持って作られたにもかかわらず、使われなかった場合も多数あります。
このようにして、工作の形跡すらあいまいにしていたと思われます。
この二人が出会った八角堂も、そうした場所でしたが、しかも意味付けられた二つの神聖獣の気が交じり合う場所でもあることから、今 回の効果は著しく出てまいりましょう。
観想に長けた中国人が作った寺院であるゆえ、全体的には弱々しくとも、抜かりがないのです」
「梵天の密命者は、ま さにその八角堂のオーナーの中国人としてわざわざ化身していたとか。
それも霧人仙傘下の組織を利用して成り上がっている。
中国の革命という歴史の表舞台に隠れて、公然と工作しておってからに。
裏をかかれたこと、それだけでも不愉快な話。
諸相が出揃っているというが、その効果はどのように出るのだ?」
「過去幾度もあったときには、すべて滅亡時もしくは滅亡に瀕したときでしたのに、こんなに中途半端では、予測のたてようがありません。
あえて予測しますと、滅亡を惹起せずに、今のまま再生過程にはいるかと思われます。
ただし、ここ短時日のうちに一挙滅亡の過程さえなければですが。
しかし、そうすると反作用のはけ口がなくなり、いつかそれが破綻して、我々のサイクルによる再文明創造ができなくならないかと案じられます」
「この文明はいますぐに滅ぼすわけにはいかん。い ま滅ぼさねば、次 はない。と すれば、どちらに転んでも、土壇場ということか」
「そういうことになりましょうか。た だし一つだけ、後世の者がミスをしでかしており、もしもこの場所が火の鳥の存立基盤を担い続けるなら、そ こから機能を麻痺させることができます。まだ火の鳥が羽ばたいておらぬうちですから」
「それは何だ?」
「八角堂の鳳の間が暗闇に閉ざされているのです。
この意味するところは、鳳の存在を隠し、我々に気取られぬように図っていたと見られます。
ところが今となれば逆に、鳳は鳥目の状態に等しく、動けない状態を作っています。
龍だけでは、片肺飛行となることは必定。
このため、火の鳥は方向が見定められず、発進に躊躇していると見うけられます」
「いま火の鳥は、片足を離陸したところとか」
「さよう。発進寸前ではありますが、二の足を踏んでいる状態です」
「妨害せよ。何としても」
「ははっ」
「それから、この世界を砦化する。すべての露骨なレジスタンスを地上から一掃すべく戒厳状態に置くのだ。手段を選ばずともよい」
「ははっ」
「たかが火の鳥一匹に翻弄されるとは。ならば、これを契機に内を固めようぞ」
こうして指令は宇宙に行き渡り、み ごとな統制下の宇宙連盟や宇宙同盟下の星星にさえ、ごく少なくなったはずのレジスタンス狩りが行われたのである。
それはまるで、やみくもな密告と嫌疑かけによる魔女狩りの様相すら呈していた。
協定星である地球も同じようになりかけていた。
火の鳥の離陸寸前が確認されてからほどなく、地 球上の人々を震撼させるテロが勃発した。
テロを起こす者の心に火をつけたのは天仙配下のものであり、そ れを取り締まる側に熱意を注いだのも天仙であった。
すべての人心を、一つの権威と軍事のもとに集約する作業が始まったのである。
しかし、もともと反抗的なものの多く集まる場所が地球である。
公然とした隠密もおり、一筋縄で行くわけはなかったため、強力な飴と鞭が使われ始めた。
「地球にはレジスタンスが多いだけに、一気殲滅すればいいのだが、賭けの場でもあるし、その隠密がいるだけに気を遣う。他の星に比べてややこしい話だ」
「親方様の決断しだいだ。指図一つで、一気にやってしまうものを」
これが並み居る天仙たちのぼやきとなった。
さて、世界の指導層には、闇太后が訓練した杖の眷属や、地獄の釜の中から抜擢された冷酷無残なボスたちがそぞろ出てきて地位を築いた。
彼らはこぞって、自己利益伸張と支配欲の権化であった。
彼らの欲望のもとには、本来利益されるべき民衆などは初めからなかった。
そして、民衆を飴と鞭で調練し手なづけ、彼らを守り囲むための多重の砦を築いたのである。
そして、最も親派なロボット的民衆の真ん中に居を占めた。
こうして、ピラミッド階層状に、民衆に差別を作り、征服者と被征服者の境界を不鮮明にしつつ、強固な支配体制を確立していった。
宇宙は全域、そのような方向に向かっていた。
地球上には、国家と反分子組織という対立構図が宣伝され、これが民衆の個々に対する踏み絵となっていく。
差別と困窮にあえぐものも、こうして国家の管理下に置かれて去勢されていく。
国家間も、知 識力と経済力で差別され、世 界統一の動きの中で、階 層化が図られていく。
統一の前には、国家の取り潰しも様々な策謀をもって公然と行われるようになった。
そして、中 央のみが合法的に全生き物を支配するという構図がしだいに確立していくのである。
この砦は、恐ろしい仕組みであった。
事あらば、砦の外壁を形成する弱小な庶民から犠牲を出す。
利益の取りこみは、砦の門を開けて中央に直行させて、分配は僅少にして、しかも上厚下簿とする。
力関係のみがその巨大な生き物の構造であった。
力あるものがその生き物を見たならば、手当たりしだい食い散らす、一つ目の満身創痍の毛と皮がむけた怪物と映ったことであろう。
天尊は地球上がそのような怪獣と化していくさまを見て、喜びを沸かせる。
「見よ。あれほど無邪気に食べ物をほしがっているではないか。それにしても、あれを形作る細胞たちの哀れなこと。それを知って殺そうとするものがどこに居よう。そんなものが居たとしたら、それこそ極悪非道の者であろう」
「ははっ。これを取り潰そうと図る梵天は、まさに極悪神です」
「そこから出た隠密がする評価はおよそ定まっていようが、事構える準備が整うまで、せいぜい長生きさせてやれ。ただし、事を起こすときは、真っ先に・・」
「心得ました」
そのような策謀が進捗する中、こちらは蓬莱島である。
「あなた。困ったことになりました。いたるところで、杖の化身や地獄の王たちが身内を率いて支配層に入り始めました。地球は半魔支配から、いよいよ真魔支配に移りそうです」
下界を映す水面には、為政者や資本家、経済人や研究家の中に続々とゾンビ顔や強欲顔の者が参入していく様が映っていた。
彼らは民衆を動かせる立場である政治畑や金融畑に吸い込まれていく。
そこから立ち上るどす黒い煙。為替や株投機等。
人々が傷つき流す血が、ゾンビたちによってバキュームのごとく吸い上げられ、負傷した人々が干からびていく様を映し出していた。
「君はアプリケーションの使われ方を見たかね。まだ悪には完全に染まらず、健全な動きをしている。
それは社会を構成する人々がまだしも正義を保っているからだ。
君が与えた相互扶助の精神が、まだ廃れていないということだ。
もう少し様子を見よう」
「当初とは裏腹なことを言われますね。私 は真魔に染まっていく作品の行く末など見たくはありません。
もうあなたの良いようになさってください」
「それでは君が敗北してしまうことになる。それに、我々がいますぐ采配できるものでもない。
下界に降ろした二人のモニターの結果を待たねばな。もう少し待ちなさい」
「そうですね。初めに無理を言い出した私がしっかりしなくては」

支え合う二人

そのころイナンナは、離婚直後の母子家庭を構えることとなり、いつまでも家にくすぶってはおれなくなった。
職業安定所に幾度か通ううち、た またま来ていたある業者の保険外交員にスカウトされる。
まさに即決という感じであった。
だが、そ れまで家庭に閉じこもっていたイナンナに、い きなり外交ができるわけもない。
不安と寂寥に駆られるとき、励まし続けたのはネアンであった。
「イナンナ。ぼくらは神話に生きている。上にも下にも仕事があってたいへんだが、君はやはりそれなりの資質があってここに居るわけだ。自信を持ってやってごらん」
それ以前には気心の交流にとどめていた付き合いも、い つしかたびたび生身を通して行うようになっていた。
「あなたは不思議な人。こんなに気持ちいいなんて。今まで嫌いだったセックスも、あなたとなら好きになれる」
「たぶん、ぼくが君に愛情を抱く分、愛情が心地良い気のエネルギーに変わって、それが君にぴったり合うんだろう。ぼくらは共通のキーワードを持っていることは確かだ。
だからセックスも、ちょうど鍵と鍵穴が揃うようにぴったりなんだ」
二人は股間をすり合わせながら、キスと抱擁を繰り返した。
ネアンがイナンナの身体を優しくさするつど、癒しの気が生まれ、イナンナの身体に吸い込まれた。
イナンナは確かに霊媒体質であった。
だが、霊媒体質というものは、霊体もしくは幽体のフレームに、ぽっかり空洞が開く現象なのである。
その空洞が、本人の気が満ち足りているときには塞がっているわけだが、気が不足しているときには大きくなり、いわばセキュリティーホールを突くようにして、様々なおかしなものがアクセスしてくるといった具合である。
時には良いものが懸かることもあろうが、多くは不正なものが懸かり、それがホールに居座りつづけるようになると、たちまち精神状態はむろん、身体のコンディションまで狂わせてしまうのである。
もちろん、不可視の領域で起きていることゆえ、地 球を席巻している科学には認知されなかったため、広い宇宙の中、地球だけはこの分野で大幅に遅れを取っていた。
むろんそこには、流 刑地地球を魂レベルから劣悪な環境に置こうとする天仙の目論見があった。
このため犯罪は多発し狂暴化するも、根本的な理由が解明されないため、何世紀を経ても改善されることもなく、人々の心は蝕まれるに任されていた。
ネアンには決してイナンナのホールが見えるわけではなかったが、電話で声を聞かせたり、あるいは直接接触することにより、彼の持つ気のエネルギーイナンナに充填していた。
それが極めて即効性をもたらすことから、ネアンも自信を持つようになった。
またネアンも、イナンナが信頼を寄せて愛を求めてくるつど、生きがいややる気という形でエネルギーを回復した。
それはまさに霊的夫婦のする営みであり、互 いに円環を描くように気を巡らせ合う行為であった。
「ああ。ぼくは君といるときがいちばん充実して幸せを感じる」
「それは私のほうよ。今日いろいろ問題があって疲れ切ってしまっていたけど、あなたのお声を聞いたり、お顔を見ただけで嘘のように楽になる。私は幸せ。こんな幸せは今までなかったことよ」
「こんな頼りないぼくでもいいのかな?」
「いいの。そのままでいいから、ずっとそばに居て。絶対よ。私がいてもうっとおしく思わないなら、ずっと」
「うっとおしく思うわけないだろ。君はぼくの生きがいだ。
君が現れてようやく、誰か人のために生きてやろうという気になったんじゃないか。
君は希望をなくしていたぼくにとっての大恩人なんだ」
「そんなふうに言ってくれるなんて、嬉しい」
「愛してるよ、イナンナ」
「私も愛してる。そして尊敬しています」
「ぼくも君を敬愛している。だって、君は神様だもん。弁天様なんだ。誰が何と言おうと、ね」
「私が弁天様なら、あなたは夫の梵天様よ。
梵天様はねえ、子供がほしくて弁天様をお作りになったんだけど、そのあまりの美しさに引かれて、妻にしてしまわれたのよ。
私も夢の中の八角堂で年の差があるあなたに抱かれた。
そのとき、エッチなこともされたんだよ。子供にも手を出すエッチな梵様なんだから」
「ああ、そうだとも。君が可愛くて可愛くて、他人にやるなんてことはとてもできなかった・・・さあおいで。抱いてあげる」
「ああ、そんなところを・・ああっ・・手が早いのね」
「ほうら、もうこんなに濡れちゃって。そんなにほしいの? じゃあ、美味しいものを頬張らせてあげようかな」
「ああーっ、それ。いい・・いいよお・・」
「ほおら、おいしいだろ? ずんずん突いてあげよう。いちばん奥までね」
「ああ、つっかえてる。もっと、もっと。だめ。やめないで」
ネアンはイナンナの感じやすい体位をじゅうぶん試した後、い くつもの斬新な体位を試し、イナンナを幾度もの絶頂にいざなった。
イナンナは、ネアンの下で目を閉じたまま、「はあー・・はあー」と身体をぴくぴく痙攣させた。
セックスをはじめた頃、イナンナは絶頂でも最高潮となると、骨盤の下に潜みとぐろを巻くクンダリーニが覚醒し、勢いよく脊柱を駆け上った。
しかし、性行為の時の脊柱の姿勢は概して良くないことが多い。
クンダリーニが勢い良く頭部に達したとき、中心のラインを外れたのであろう。
脳天に強烈な衝撃が加わり、イナンナは割れんばかりの頭痛に襲われた。
ネアンは脳が熱にやられる事態を察して、彼女の頭を押さえ背中をさすって、気の固まりを自らの掌で押し下げるふうにし、彼女にこの熱い気の上昇に対して、冷たい鉄球を観想して下に降ろすようにイメージさせた。
このように、初期の性行為では、修行者としての素質のありすぎるイナンナがオーバーワークしてしまい、ともするとダメージを生じかねなかった。
「いつもこんなふうでは、死んでしまうよ。ここまで激しい絶頂は、もっと年取ってからだ。
そう。もういつ死んでもいいというときにやれば、きっとすごい力が得られるだろう」
「お婆さんになっても、ちゃんとしてくれる?」
「ぶっ。ああ、いいとも。ぼくが死ぬ間際に、指でちゃんといかせたげよう。君は蛇の力で羽化登仙。二人でいっしょに旅立とう」
「こわーい。でも、ごいっしょします。向こうでも、可愛がってね」
「君も、こわいね。でも、いいとも。しっかり可愛がってあげるよ」
逆にイナンナの気が萎えすぎたときの性行為では、却って気が消耗してしまい、イナンナの幽体のホールに憑依霊が懸かってくる場合もあった。
そこにたまたま、天仙からの差し金である暴言を吐く霊が懸かり、ネアンを脅かすべく論戦を挑んでくることもあった。
「ああー、この世界で、我々は面白おかしくすごしているのに、はあー、なんでお前の一存で阻害されねばならぬ、はあー」
「そうではない。悪しき傾向を糾そうとしているだけだ」
「はあー、お前は良い者を気取っておるつもりだろうが、はあー、そんなものが息苦しくてたまらんという者がたくさんおるというに、はあー、お前ごときの一存で先を決められてはたまらんわ。これ以上手出しするというなら、この女がどうなってもいいか」
「なに?この人には何の関わりもない。心配するな。お前も含め、あらゆる者を救うつもりだから、一時の目先欲に囚われてごねてはならない。お前の名を聞いておこう。名を申せ。この人に関わってはならん」
「はあー、お前のように人でもないものこそ、どうしてこんなところにおる。はあー、さっさと元のところへ帰れ」
埒があかないかと思われた論戦も、やがて憑依霊の退出と共に幕を閉じる。
霊媒状態にあったイナンナが意識を取り戻すと、その間何があったか、まったく思い出せないのであった。
その傾向も、ネアンが強い愛でイナンナを包むようになってから、ほとんど起きなくなっていった。
だが、このときすでに、イナンナの幽体のホールの隅には、とんでもないものが棲みついていたのである。
どうして霊媒体質というものがあるのだろうか。
それは、多く過去世に起因していた。
彼らの魂の多くは、過去のどれほどか前の転生において、霊媒となる訓練をしていたのである。
あるいは過去世に、脱魂する傾向を生むような事件か衝撃に見まわれたのである。
昔は、若い処女を神への奉げ物となる巫女にする習俗があった。
奉げ物となる見返りに、神託を戴き、それを為政者に伝えるという役割を持たされていたのである。
体系立てられた訓練が徹底して課されたため、当時女として生まれた魂が、多くその影響を引きずることとなった。
繰り返し輪廻するすべてにおいてその傾向をPTSD症候的に持ち越している者が多いのである。
むろんサニハと呼ばれる男の御巫も居た。彼らには、巫女たちを目的に応じて束ねる役割があり、別の訓練が施されていた。
そして、彼らも、当時関わった巫女たちとともに、輪廻を超えて役割を遂行すべく図っているケースがあった。
ネアンとイナンナは、そうしたケースであったかもしれない。
ネアンの魂は、かつてイナンナの魂の化身だったころを訓練したサニハであった。
それはヤマト発足の頃である。
このときにも、鶴と亀の印章がそろい、火の鳥は現れた。
現れたのだが、弱いものに終わってしまい、地球全体を巻き込む規模には成り得なかったため、太公望のデーターには上がってきていなかったのである。
黄金のヤタカラスとして伝承されているものがそれである。
火の鳥が弱含みとなった原因は、イ ナンナとネアンがお互い敵対する勢力に属していたため、強 力な信頼関係が結べなかったことと、人 と霊の交流にとどまったことにあった。
ネアンは、当時ヤマト族の本流にいたヤマトスクネという者に、霊として後発的に憑依したのである。
初め但馬丹後の地に勢力した本流は、先住民を侵襲し、征服すると共に、先住民の心の拠り所である神々を封じた。
そのためには、旧教をもってする神官や巫女たちを根こそぎにする必要があった。
ヤマトスクネの系統はサニハの力を持っており、それを悪用して、先住民の巫女たちを教育すると称して、次々と手をかけ慰み者にし、ついには殺して祟らぬよう、殺した土地を呪術で封じていったのである。
こうして、この頃の恐ろしい経験を持つ巫女の魂は、いつまでもこの地に漂うか、あるいは輪廻しても、強いPTSDショックを抱えたままとなった。
ヤマトスクネは、そのような累代の傾向に決して良い思いを持っていたわけではない。
だが、そうした悪趣に染まらざるを得ない立場にあるサニハでもあった。
そんなとき、丹後にあって、イナンナの化身の地方から連行されてきた巫女に一目ぼれして、妾にしてしまったのだ。
このとき、ネアンの魂が、危急を悟ってヤマトスクネの霊的ホールに取り付いた。
嫌がるイナンナに対して無理やり情交を果たそうとするスクネ。
その場所がおりしも、天橋立の内海に浮かぶ六角船という結界の中であった。
ネアンは、ある地方において、イナンナの化身とは恋仲の青年であったが、そのときすでに命終して、魂魄イナンナの近辺に漂わせていたのである。
たまたまスクネも霊媒体質のホールを抱え、こ のときばかりはセキュリティに甘かったために、ネアンはそこに飛びこむことに成功した。
「巫女よ。名はなんと言う」
「・・」
「これからは、わしがそなたの身柄を預かる。なに、悪いようにはせぬ」
「この地であなた様一族がなさった行為は、あまりにもむごい」
「だが、わしの目をかけた者には危害は及ばぬ。いや及ぼさせぬ」
「いやです。私も殺してください」
「ええい、聞き分けのない巫女ぞ。昔者にはほどほど手を焼く。
わしも帰順する者には情けをかけるほうなのに、どうしてそこが分からぬ。
まあそれならそれでよい。殺すも殺さぬも、まずはせっかくの食味をしてからじゃ」
「いやです。私には心に誓った人が・・ああっ」
スクネは白い襦袢の下に剥き出しになった太腿の付け根を狙い、手 を差し入れたのである。
巫女は舌を噛もうとした。
まだそれをさせじと、手で巫女の口を押さえ込むスクネ。
もう一方の手で、確実に股間の秘部を捉えて、ぬめりを誘う動作を繰り返していた。
巫女の口から少し血が出る。
かっと見開き天を仰ぐ巫女の目。
そのときである。
巫女の耳に確かに恋人の声が聞こえた。
「私だ。私はいつも君の傍にいる。
今はこうして、スクネの中にいて、スクネと同化し、君と交わろうとしている。
そんな私だが、受け入れてもらえないか?」
そのとき、スクネの今まで強引だった態度も激変した。
口を押さえる手の圧力は減り、巫女の頬を優しく撫でるようにした。
もう一方の手も、こじ開けようとした秘部から離れ、優しく腿を愛撫した。
「すまなかった。無理やりこんなことをするつもりはないのだ。巫女よ。
どういうわけか分からぬが、わしはそなたが好きになったのだ。これは確かなことだ。
死のうとするほど、思 い焦がれた者がおったのか。わ しにもそのような者がおればなあ」
巫女はスクネのまなざしを見つめる。
スクネは、巫女の口に沸いた血を静かに口付けしてすすってやった。
そのとき、巫女ははっきりと、恋人の臨在を知った。
体の力を抜いて、身をスクネに預ける動作をする。
スクネもそれを悟り、全身の愛撫から、自然に湧き出す茂みの奥に口をつけ、蜜をすすり、十分とおぼしき辺りで、木綿の布で覆う股間から取り出した膨張したいちもつをそこにあてがい、ゆっくりと挿入していった。
若干、困り顔に目を細める巫女。
「いい娘だ。痛くないだろ?」
頷く巫女。
六角船は細波による揺れ以外に、人工的な揺れによる波紋を周りに醸していた。
山腹からでも目の良いものが見下ろしたなら、お よそ何が行われているか悟ったことであろう。
なおも霊視能力に長けた者がいたなら、鶴 と亀の印章がそろったことによる波紋が神話空間に及んだことを悟ったかもしれない。
このとき、火の鳥は弱含みにも起動して、日本のまだしも小域に関わる影響しか及ぼさなかった。

さて、ネアンとイナンナは性行為を度重ねるうちに、しだいに加減がわかってきて、性行為それ自体は楽しむべきことであり、偏った電位をゼロにし、愛と気を巡らせる手段として、効果に安定を見せるようになり、それとともに外面的な効果も現れてきた。
まず、彼女の営業成績がめきめき群を抜いて良くなったことである。
新人にして、巷の不景気は彼女にはまったく関係しないかのように、巡り合い運と幸運に恵まれた。
客は、彼女の自己利益度外視の誠実さと、客にとって良い商品しか売らないという姿勢に打たれた。
そして何よりもネアンがたびたび口にする言葉をイナンナは遵守した。
「君はこの世に工作員として新しい世を築くための学習をしに来ているわけだからね。
いずれ君は龍族を束ねる弁天から一歩踏み出して、す べての魂を救済する観世音菩薩になるんだ。
いま、人間を学ぶ過程を踏んでいるのだから、愛情をもって人に接し、じっくり人間観察してくるんだよ」
こうして、どんなお客の長話も聞き役に徹し、人の喜びを心から喜び、まるで観音のごとく多くの人の心を癒していったのである。
特に老人層は、昔話をしたがる傾向にあったから、彼女の人気は高く、そのあたりから紹介される人も続出するようになる。
すると、いつしか小さな契約が主ではあるが、間違いのない件数が得られていくことになった。
人を罠にはめるようなことなく、お客には得をした気になってもらう。
営業の鏡とも言うべき素質を、新人の当初から備えて、周りの同僚も本当に新人かと疑うほどの成績を上げるようになった。
それもそのはずである。彼女には弁天の分霊が懸かっていたからである。
コンディションさえ整えば、その能力をいかんなく発揮したのだ。
本体の弁天は、自 ら作ったアプリケーションカンナオビナが着実に世間に対して実践していることをいたく気に入った。
「我ながら、惚れ惚れします」
「まったくそうだな。純粋に育ったものだ。君の作ったシステムも、こうあって輝くわけか。すばらしい。
私も彼女から学ばせてもらっている。私も、何と見所のあるシステムかと、いまさらながら思っているよ。
そうだ。ときどき彼女を君の元に連れてきておくれよ。私もじきじき会いたいんだ」
「あなたに直に会わせると・・ねえ。変な力を使わないかと・・。
じゃあ、私の中に戻して、あなたに会わせましょう」
「そんな変なことはしないよ。ネアンもいるのに」
こうして、イナンナはたびたび夢の中で梵天と出会うようになった。
梵天はそのつど、なるべく彼女に啓示夢を授けて帰らせた。
むろん中には梵天との性行為の夢もあった。
ネアンとの性行為に物足りなさがあったときなど、梵 天が代わりにお相手したのである。
もちろん梵天は弁天と事を構えるわけであるが、弁天と意識が同化しているイナンナには、まるで自分がセックスしているように思えた。
ネアンはそのような話をイナンナから逐一聞かされるものだから、嫉妬を催したが、「あなたとそっくりな、あなたの本体様なのよ」のイナンナの一言で喜び、仕方ないかの気にもなった。
その本体様は、イナンナを夢の世界の料亭に誘い、てっちりをご馳走したり、あるときはあわび尽くしの料理をご馳走した。
弁天の竜宮での好物である。そして、どうやらVIPの常連客らしく、女将にこんなことを言っている。
「この人はぼくの婚約者なんだ。これからもよろしく頼むよ」
そんなことを本体様は言ってくれたよとネアンは聞いて、き っと自分の本体というのはやはり神様であり、霊 界か神界では羽振りを利かせているのだろうなと思うのであった。
嬉しくもあり、また羨ましくもあるネアンであった。
天界はなるほど羨ましいほどの善良な世界であった。
だが、地上界はそうはいかない。
羨みまでならまだよい。妬みや嫉み、それが昂じて誹謗中傷、さらには陰湿ないじめや暴力、犯罪などが蔓延する天仙肝入りの世界であり、神々ですら黙認せざるをえない世界であった。
イナンナの能力を認めず、受 け渡される仕事に差別があると公然と食って掛かる先輩たちも現れた。
あるときは、体を売っているのではないかとさえ囁かれる。
そのたびに、心傷つくイナンナ。
やはり、癒し係は、ネアンであった。
むろん、イナンナの能力と幸運は、天界から来たものだろう。
だが、成果の多いだけ、痛みも多いことに天界は気付いてくれていただろうか。
知ってはいても、手立てが講じられなかったのかもしれない。
守りのほうも、きちんとしてほしいと、ネアンもイナンナも神に祈った。

意識を飛ばす能力

ところで、ネアンの癒し能力は、カンナオビの頃から発現されるようになったものであった。
遠隔から意識的に透視をするように相手方を間近にして、あ たかもそこにあるように手を触れたりすれば、相手方に実感として伝わったのである。
「君の白い太もも。ぼくには見えているよ。もう少しスカートをたくし上げてごらん」
「こうですか?」
「そう。おおっ・・妖艶だなあ。じゃ、少し脚を開いてごらん」
「ええっ、こうですか?」
「おや、どうしたの?はいてないんだね」
「えっ、どうして分かるの?」
「はっきり見えるんだもの」
「そうなんですか。怖いわ。実は、あなたを迎えるために、こうして待っていたんです」
「じゃあ、君の期待に応えてあげないとね」
カンナオビとはテレフォンセックスしかしたことがなかったが、カ ンナオビはまるでネアンに直に抱かれ、直にいちもつを挿入されているかのように感じたのである。
ネアンが意識的に、「抜くよ。さあ抜けた」と言わなければ、残留感をいつまでも持ってしまった。
ネアンの幽体かなにがしがエネルギーを伴なって、目 指す人のところに飛んでいたのか。
それとも催眠術だったのか。
そのエネルギーの効果は、カ ンナオビに関しては、美 容と生き甲斐の面で顕著であった。
そして、人生の新たな局面を開発していく原動力となったのである。
また、こんなこともあった。
カンナオビと別れて、イナンナとの身体を張った付き合いが始まると、いつの日か結婚ということも考えられる。
イナンナには三人の幼い子供が居た。
ネアンがいずれ父親となるには、彼らの協力が欠かせない。
そこで、ネアンは、まずいちばん年上の長男に愛情を注ぐことにした。
といっても、イナンナの両親が新たな男の出現を許さなかったため、子供らに直接会うことはさし憚られた。
よって、いつもするように、意識を飛ばしたのである。
ネアンにすれば、可能性に賭けたつもりであった。
まだ見ぬ子供であったが、およそ見当をつけて彼と思しきイメージに対して、その夜は並ならぬ愛情を注いだ。
ただそれだけのことであったが、長男は、その夜夢の中で、男の人に出会ってやさしくしてもらい、目が覚めてからイナンナに対して、「龍のお父さんに出会った。この人がぼくの本当のお父さんだ」と話したのである。
ネアンはそれを聞いて、どんな人物として自分は現れたのだろうかと心配をしたが、それも大丈夫であることが程なく分かる。
やや後に、ネアンの写真が見せられるや、長男は「夢に出てきた人は、この人だった」と答えたのである。
いっぽうイナンナも、意識を飛ばす力を持っていた。
見たい夢を見てコントロールするいわゆる明晰夢を見ることができ、そ のとき夢見の身体を飛ばしたのである。
ある晩、ネアンの元にイナンナと思しき者がきた。
ところがそれは人間の等身大をした、金縁の青い龍であった。
ネアンは、それイナンナであるに違いないと思い、横たえると、優しく抱いた。
こりこりとした爬虫類の肌の感触があった。
そして翌朝こんなことイナンナに対して言う。
「君は元の身体でぼくのところにきたね」
「ごめんなさい。化けきれなくて」
「いいや。少しも違和感はなかったよ。ちゃんと抱いて差し上げたからね」
「ありがとう」
またあるときネアンは、巨大な白蛇が、ネアンの家の横の10メーター道路をはみ出さんばかりに南進している夢を見た。
その白蛇は、横道にそれ、土手のようなところに登ると、西に傾いた夕日のほうをじっと眺めていた。
イナンナは数日遅れで、あ る懐かしいが思い出せない道路を自転車で走っている夢を見
た。
そして、傍らから道を外れて河か池のある土手に入り、夕日を眺めているという夢である。
ネアンは二つの夢を照合して、この白蛇もイナンナの化身であろうと推測した。
「君は龍の間に居て、ぼくは鳳の間を降りて君に出会ったんだ。ということは、君は龍であるということだ。
しかも、八角堂の一階の天上には、金塗り青身の龍があった。その龍を先日ぼくは夢に見て、君ではないかと思って抱いて差し上げた。
では、白蛇は何か。ぼくはかつて小さい頃に白蛇伝というアニメを見たことがある。
その映画には、なぜかすごく感動して涙が止まらなかった思い出がある。
きっと、君はあの白娘ではないだろうか」
「あなた。伝承では、弁財天の化身は白蛇なんです。
私もときおり自分は白蛇ではないかと思ったことがあります。
尻尾を出さないようにしなくてはならないと思ったりもね。ふふっ」
「何だよう、すごい一致じゃないか。ぼくはまじめに真相だと思うよ。
それに弁天は、龍神でもあるはずだ。そんなに化身を持っていちゃ、人間に固定しておれるの?」
「さあ、わかんない。明日になったら、あなたをぺろっと食べちゃうかもよ」
また、子供は穢れが少ないため、夢に見る内容もストレートであり、その見たことをストレートに表現もする。
イナンナの長女は、まだ四才であったが、イナンナの血を引いて霊媒体質であった。
土地の神霊などを遠足の際などに目撃し、引 率の先生や他の子供に言っても無駄と経験的に知っているため、話のわかるイナンナに話すのである。
「おかあたん。蒲田神社の神様はねえ、形が四角くてねえ、男の神様ばかりなんだよ。
みんなでわいわい騒がしくしたもんだから怒ってた」
あるときには、た またまテレビに戸隠山が写ったことがあり、そ のとき長男が、「あれ、ここ前に見たことがある」と言うと、長女は、「そうだ。ここでお母さんにおっぱい飲ませて育ててたんだよ」と言う始末である。
むろん子供たち二人が行ったこともない土地であるに違いなかった。少 なくとも今生では。
だが、これにも深い意味があるようにネアンには思えた。
神話に語られる遠い昔、国常立神が群臣のクーデターに遭い、殺害された。
その息子天照天皇がやがて謀殺される。
その妻であったヒルメ、いわゆる後の天照大神が、クーデター派の意向に立ったスサノオの侵攻から難を逃れて、戸隠山に落ち延び、ここに立て篭もったのである。
これがいわゆる岩戸隠れとされる逸話である。
そのとき、国常立神の娘であったイナンナの魂は、天照大神の子供として再来した。
イナンナの長女は、そ の時に乳母を務めた天照天皇の第X夫人であったとネアンは解釈したのである。
父国常立神は、世を善導するため、かつて幾度か転生のつど再来した。
しかし、父が殺害されて封印され、再来もかなわなくなった分、娘が志を当面引き継いだのである。
地球上では、栄華を誇った大文明が大地震と大噴火で滅び、長く暗い夜の時代となっていた。
神界では天照大神の懐柔が進み、偽 の国常立から譲位される形で総裁の座についたもの
の、邪神たちの思うが侭になっていた。
こうしてイナンナも、高貴な血筋から外れ、理想には程遠いレジスタンスたちに混じって工作員として転身することとなったのである。
あるときは、宇 宙連盟の科学者グループの中に工作員としての転生を得たこともあった。
ただ唯一の目的、邪悪を去り、世界に正義と理想を打ち立てるための多面的活動であった。
その根底に、一家惨殺と離散という、忌まわしい記憶が原動力としてあったことは確かである。
さて、ある日の深夜に、イナンナとネアンは逢い引きをした。
抱き合う気持ちの良さを共に味わううち、た またま共通の話題としていた御伽草子の夫婦愛を表現する一節、「比翼の鳥。連理の枝」を持ち出し、「君とは二人そろって、比翼の鳥のように飛びたいものだ。連理の枝のように、このまま離れないようにして永久にすごしたい」などと言い合っていた。
むろん、子供たちが寝静まって、イナンナが家族の目を盗んで外出するわけなので、イナンナの両親はもとより、子供たちの知るはずもなかったことである。
ところが翌朝、この長女が、「夢にお母さんが出てきてね。子猫になって、私のお手てを噛むの。それから小さい龍になって、次に鳥になって飛ぶんだけど、その上にもっと大きな鳥がいっしょに飛んでるの」と話したのである。
イナンナは、さっそくネアンに、長女がこんなことを話したことを告げ、「長女が夢で私らの密会を見てたみたいよ。だ けど、そ の意味がまったく分かってないみたいだから、ひと安心」と付け加えた。
「ひえーっ。ぼ くらが比翼の鳥なのを見切っているじゃないか」と 、ネ アンは絶叫した。
最初の子猫とは、ネアンがかつて拾い育てた子猫であろうか
その変化(へんげ)の過程さえも読み切った長女。
さすがのネアンも、イナンナ一家のアダムスぶりには仰天したのだった。
二人の間には、このように人域を外れたところに共通の話題を持っていた。
たとえお互いが世俗の中で底辺の暮らしをしていても、この話題に切り替わるや、神仙の二人になるのである。

イナンナの詠んだ歌。
秋の夜の 深き森にて 待つ人を 尋ね行きたし その寧庵を
しがらみの 古き衣を 脱ぎ捨てて 御許帰る身 ことほぎたまへ
はるかなる 輪廻の旅を 成し終えて 時の果てまで ともに生きゆく
縦横の 糸を結びて 織りなせる 錦の布も 君あればこそ
君がため ただ生まれたり 愛そそぐ ため生まれたり 時の雫は
これに対し、ネアンの詠んだ歌。
我が妹よ よくぞもどりし まずはこれ 長旅終へし 労ねぎらはむ
結ふの手の 真名井の聖水 飲みてのち 愛か溢れる 我が心かも
汝の愛は 現身超えて 暖かく 心溶かせり 至福いたせり
汝とともに 旅に出たばや 契りせし 玉の我が子を 育てし後に
黒数珠と 朱数珠を繋ぎ 金色の 彼岸の先に 庵構へむ
神話の物語が二人の基盤にはあった。

天仙の妨害

だが、天仙がネアンとイナンナの神話の間を裂こうとして、世俗の価値を手に入れない
かとイナンナに囁きかけてくることもしばしばである。ま るでキリストがサタンによって試されたがごとく、世の聖者をテストするときによくありがちな狡猾な罠であった。
営業して回る中に、イナンナの美貌と純朴な人柄に惚れて、あまたある財産を背景に求婚や妾になることを要求してくる輩が出てきたのである。イナンナは、相手が客であることもあり、また客となりうる人であると思うから、二つ返事をするのがやっとであった。それをよいことに、執拗に交際を迫る男たち。
だが、イナンナは、すでにそうした男のエゴを痛いほど経験していた。すでに結婚契約書一枚で、彼女自身、男の下僕として暮らした経験があったし、友人にも抜き差しならぬ状態に置かれた女性がたくさんいることを知っていた。
そんな折もおり、イナンナは啓示的な夢を見た。モルガンがイナンナを後継者に選び、その遺産のうち、欧 州五カ国にある資産をイナンナに譲り渡すという仰天するような夢である。
おりしも60才代後半という、妻に先立たれた老資産家から、何度も食事に誘われ、そのつど「わしの嫁になってくれたら、子供らの養育はむろんのこと、あんたにも満足いく生活を約束するがなあ」と口説かれ、ついには、「わしはもう老い先短いんだ。そうなれば全財産はあんたのものだよ」とまで説得を受けたのと見事にシンクロした。
イナンナにすれば、こ れこそモルガンの象徴夢が自分の身に投影するチャンスと映っていてもおかしくはない。
ところが、イナンナはかいがいしくも、この夢は、きっと今の生保会社が、外国資本の圧力に勝って、彼らの侵食を食い止め、彼らの顧客を逆に奪い返すことを意味しているのだろうと考え直した。あるいは、イナンナ自身弁天であるとするなら、狡猾な欧米型商法が、日 本の商法の良さを認めて軍門に下ることを意味するのだろうと捉えたりしたのだ。
確かに、子供三人だろうが四人だろうが、じゅうぶん養うに足る資力はほしい。だが、またもかつての死んだような生活に戻ると思うと、適宜力になってくれ、自ら力を発揮する自由を認めてくれるネアンのほうが、たとえ貧しくともはるかに良いと思えるのである。
しかし、この頃のネアンは、イナンナに渡すべき知識を与え尽くしたのか、教訓話が勢い乏しくなり、下半身事にしか興味していない様子で、これで大丈夫なのだろうかという思いはイナンナにあった。
だが、イナンナは、現実世界に生きる重荷や喜びとは別に、形而上の神話に生きる自らを認識していた。間違った人と再び事を構えれば、またも運命が変わってしまうという怖さもあった。そして心に言い聞かせる。私が経済力をつける。ネアンがおじいちゃんになったなら、私が囲ってあげるのだ、と。
そして、反動の有無を思い悩んだ末、意を決して、これら財力を嵩にきたお客に対して断りを入れた。すると、ほかならぬイナンナが願ったことゆえ、これらの手合いはすごすごと手を引いていった。
ただし、相手はなるほど天仙の回し者である。
金を自由にする強みで何でもする手合いであって、予想を超えて残忍にも、大事な時点
でわざと解約するという報復に及んできた。だが、弁天の計らいで被害が軽微に済んだのであった。
天仙のもくろみは一つ失敗した。
ある天仙は言う。
「どうして誰でもが飛びつくようなうまい話なのに、断るのだ? 富を与えよう。閑居も思いのまま。
なのに、どうしてこの道を取らないのだ?こんなものがいようとは、信じられんな」
「あいつらは人間ではないのだ。その辺は間違うな」
「まだしもネアンのほうが世俗的ゆえ、攻略しやすいぞ」
「これも梵天が関わる以上、余計なことはできん。親方様のご指示を待つしかない」
そこに闇太后が芭蕉扇で自らを煽ぎながら、現れた。
「何を寝ぼけたことをお言いです。いかに意志が強くとも、いかに加護されようとも、抱える負担が多ければ心身が疲れ果て、いつかは音を上げるもの。拷問の手法を用いなされ」
「ははっ、しかしそこまですると・・」
「もはや戦時下にあると思ってかかりなさい。亭主には、こちらからよしなに申しておきます」
「はっ。では」
地上に生きるとは、それ自体がすでにたいへんなことである。
そこに法則性の掴めぬ運命の好不調の波が訪れ、ど んな生き物も自らの直感を頼りに手探りせざるを得ないわけである。そこに、なおもその生殺与奪に関わる位置にあるものが別にいるとすれば。
人々は古来から、そのような不可視かつ不可知の存在を認知し畏怖し、生け贄を奉げてきた。
しかもそれが最も獰猛な天仙であったとすれば。並 の生け贄では事足るものではない。
もしそれに、反旗を翻すようなことでもするなら・・。
いまここに投げ出された二人は風前の灯だったかも知れない。救う神の側は、役割を与えた梵天と弁天、そして守護の神々、隠密裏に動く復興計画の神々ぐらいであった。
この世に関していえば、それで十分といえば十分であったかもしれない。ところが、彼らはイナンナとネアンの衷心からの祈りを求めていた。しかも、万民を利益するに足る良い発想が伴なっていなくてはならないと規定していたのである。
地上界にあるものは、そうした緩慢に見える手続きを踏まねばならないのである。
だが、心の動揺などで、望まれる効果が得られない場合もあるとすれば。キリストが処刑される前にゲッセマネでした絶望の叫びは何であったか、分からないものでもない。
とかく善者の側は見捨てられがちであり、対応の遅れの目立つ感は否めないのである。

イナンナに、ついに拷問の触手が伸びた。彼女の誠意して漕ぎ着けたはずの契約がひとつまたひとつと、中途解約されることとなったのである。
彼女にしてみればかなり大きめの契約であった。その解約は、今まで培った幾多の契約の成果をご破算にして余りある痛手を彼女に与えることとなる。
もう一度、出直しのつもりで、その解約のソフトランディングを図ろうと客先に飛ぶイナンナ。しかし、一見如菩薩に見えた相手は、天仙肝入りの夜叉であった。
長い営業がこれから続く中で、たかがこれだけのことといってしまえば易しい。だが、この手の方法は天仙の得意業であった。たとえ小さな解約の連続でも、それに割かれる労力はたいへんなものである。
それも、その契約を取るために足繁く通いつめ、そ れなりの手土産もすべて自腹で都合つけたものである。
そして解約の問題処理にもまた遠路手間をかける。その無駄を思うと、たとえこれが営業とはいえ、涙の出そうな空しさに襲われることになる。
それは気の無駄遣いとなり、自然体ならば自然になされる補給も、自らの心で閉ざし気を浪費するばかりとなり、気が萎えていく。気が萎えると、とんでもない状況に陥る体質のイナンナである。かつての地獄の精神状態が間近に口を開けていた。
ネアンは、イナンナの気を取りなおさせようと努力する。さらには、イナンナの痛手を自らの給与から補填することを申し出る。だが、そ れではモルガン爺のすることと変わらないことに腹を立てるイナンナ。
イナンナは人というもの一般が信じられなくなりかけていた。すると、対人恐怖症ともなってくる。
外交員としての最も大事な資質に翳りが生じはじめるというわけである。
天の陰謀を察知したネアンは、ついに最も強烈で、恐ろしい祈りを天にささげた。
「ただでさえたいへんな仕事を抱えるイナンナが、こ の世によってなおもいじめられ迫害され、イナンナが絶望してしまうようなことがあらば、我が力ではすでに及ばざるがゆえに、神よ!どうかあらゆる災厄から、イナンナをしっかりと加護してください。
もしそれもしていただけぬならば、またイナンナがむざむざ不幸に陥っていくなら、私はイナンナの守護者としてもはや生きるに値しません。私の命を終わらせた上で、必ずや我が魂を抹消してください。どんな役割をも以後演ずる気はありません。よって、魂は不要。
神よ!最終自由意志にかけて、このように願い出ます。
もし心あるなら、守護と善導の力により、我らが抱える困難を打開し、イナンナと私が共に協力して子孫たちを、新 しい世に送り出せるだけの力と健康と運気と愛を授けたまえ」
その祈りは、蓬莱島に振動とともに鳴り響いた。
梵天はそれをネアンの衷心からの申し出と思いはするも、役 割を中座しようとする心を良くは思わない。梵天は、弁天の考えを聞いた。
「ネアンの弱音と忍耐力のなさには困ったものだ。君 の作品は忍耐があってはじめてクリアーしていけるものなのに。こ の実験宇宙の最終評価を送ってよこしたつもりのようだが、君はどう考えるだろうか」
「ネアンの忍耐のなさは、心臓の不調にも起因します。天仙の企みを、かつては空観によって切り返していたものも、愛 するイナンナの困難までは空観で処理できないがために、ストレスになっているのでしょう。イナンナは私が支えて、ネアンの負担を軽くしましょう。
それから、ネアンはまだ結論を出したわけではありません。イナンナが立ち直り、共に協力して幸せな家庭を築くことができれば、考えを改めるところのものだと思います。
私たちの守護がおろそかになってはよくありません。私 たちのレベルでも彼らの困難を打開してやる必要があります。あなたも努力なさってください。イナンナは私が全力で守ります。あなたはそろそろネアンの力の封印を解いてやってはいかがでしょう」
「うむ。天仙はどうやら火の鳥の出現に業を煮やして、戦時体制に入った模様だ。二人にどんな危害が加わってもおかしくはなくなった。そういうことなら、こちらも戦時体制を取ることにしよう。ネアンの最終評価をもってしても、同じ所に行き着くはずだったものだ。では、ネアンの力を順次解き放つことにしよう」

地獄の世相かそれとも

天仙たちは、杖の眷属や地獄の名主たちの息のかかった者たちに政経を牛耳らせて、二人の住む国を不況のどん底に陥れていた。
庶民の生活力を削ぎ落とすための新しい政策が目白押しとなった。リストラ奨励法、低金利維持法、福祉切り捨て法、医療費勤労者高負担法など。
それを行うにあたって、諦 め切った民衆の最後の希望を携えるかのごとく登場した封建時代の三流美談を掲げる為政者がいた。言葉のまやかしに終始し、その実は士農工商の時代をならって、残していくべき民と切り捨てていくべき民を選別していたのである。
あの毛と皮の剥けたモンスターを仕上げるために。
外国を向いた有事立法を成立させもしたが、そ の実は庶民の抵抗を押さえるためのいわば百姓一揆対策であった。善神にバックアップされた為政者なら、上杉鷹山公をならうであろうに、ここでも三流美談のまやかし宣伝が店先に並んだのである。
また、バイオモドキ神は、冷酷無残を絵に描いたような犯罪者を次々と養成した。
魂をほとんど腐らせた、犯 罪知識をふんだんにプログラムされたゾンビたちが世を徘徊するようになっていた。これによる被害を受けるのは、かつて禽仙に荷担した魂の善人ばかりであった。彼らの憤りや願いは、天仙が獄舎とすべく構築した世の為政システムによりことごとく退けられた。
そのシステムのトップに入れ知恵するはやはり、冷酷非情のバイオモドキである。ゾンビ犯罪者は、形の上の牢獄に入るも苦労なく、逆に娑婆にあるように見えて、被害者や善人の苦悩や心の立場は地獄そのものであった。
正義が報われない状況から立ち昇る怨念は測り知れないものがある。そ れが反作用を加速的に増加させる。
そんな中にいて、巷の閉塞感にしだいに圧迫感、窮迫感、ストレスを感じるようになるネアン。それが招く、苛辣になりがちな世相評価。さらには、守護力のない本体、梵天への恨みつらみも出てきつつあった。
そして、お役ご免と魂の消尽の請願をいよいよ色濃くしていくのである。
梵天は、ネアンが離反する事態にはしたくなかった。しかし、肉体でものを考える身。
いかなる信念、納得も、それだけで十分には成り得ない。イナンナはまだしも、弁天の力により、顧客の新境地を開拓していたが・・。

「イナンナにセクハラや同僚からの誹謗中傷を加えさせても、なかなかしぶといです。
普通なら、音を上げていてもおかしくはないのですが、仕事が順調なのと、気持ちを切り替えてくれる男のせいでなんとか保たれています」
「この二人は、互いに支えあっている。逆にどちらかいっぽうがだめになれば、もう一方もダメージが大きい。イナンナが難しいなら、ネアンのほうを何とかせよ」
「そうです。こいつは運気の低迷に極めて弱いのです。しばらく仕事を干してやるか、まれに良く、おおかた悪いという運気の波を作って揺さぶってやれば、腐った柿の実のように落ちることでしょう」
「もうかなり功を奏していますぞ、親方様。梵天の分身でありながら、梵天に反感を持ち始めていますぞ」
「梵天とて、そんな奴は、決して面白くはないはずだ。これはうまくすると離反、ひいては奴らの計画の失敗に繋がるかもしれん」
いろいろなゲーム攻略のアイデアが天仙の間に交わされていた。それを横目に、にやりと笑いながら座を立つ闇大后がいた。
いっぽうこちらは、二 人の密命者による代理バトルゲームの行われていることを知る四天王を初めとする諸天たちである。
彼らは極秘の役割を持つもの以外は傍観者であるから、地 上の有り様を仕事の合間に瞥見しながら下馬評を交わしている。と いっても、神 界も含む先の成行を左右するだけに、決して他人事では済まされない。
「火の鳥が発進した以上、イナンナとネアンの成行いかんだなあ」
「ネアンは、火 の鳥を新時代の到来という当初の目的にしたがって現文明の滅亡の招来に使うことを予定して下ろされている。
それに対して、イナンナは、新時代の設計図を携えてはいるが、滅亡による痛手を極力少なくして、新時代に軟着陸させる役割を帯びている。要はこの二人の調整如何で未来が決まってくるというわけだ。
二人とも、その辺の認識はできているから、おいそれと天仙の妨害にかかるまいとは思うが、どうもネアンに不満が嵩じているようだなあ」
「もし、二人が別れるようなことになれば?」
「そうなった場合は、新時代の中身がどうなるや知れたものではない。もしかしたら、破壊のみなされて、もう新時代は来ないかもしれないな」
「予測がつかない」
「いやいや、それはないと思うぞ。たとえそうだとしても、オオクロヌシ殿が復興に着手するだろう。それに、この二人の結束は固いから心配なかろうとは思うぞ」
「だが、イナンナは仕事が第一だ。この出来が悪くなれば、いくらでも不満を抱える。
それをネアンに八つ当たりする。ネアンが、道を打開してやれなければ、愛想を尽かすかもしれない。
また、イナンナの周りには、あまた男が言い寄っている。もし、その気になれば、いくらでも心変わりはできる。そんなとき、不調のネアンなど、みっともないとばかりだから、放り出されてしまうかもしれない。
いっぽう、ネアンの周りに不穏な動きが見られる。これらはすべて悪霊であろうか」
「天仙が用意した刺客であるに違いない。悪霊の取り巻きが一定の陣を敷いたとき、それが天仙側の方針を物語ることになるはずだ」
「不定形な三極を囲んでいるということは、まだ加減しているというわけか」
「もう一極加わり、悪霊のフォーメーションが完成したとき、ネアンは心変わりするだろう。あの気性だからな。だが、本当に工作員なら、耐えるとは思うが」
「真価が問われるところだな」
「祈ればスサノオ殿が駆けつけるであろうに」
「祈ることもできぬほど、諸天に愛想を尽かしているみたいだ」
「まあ、ネ アンはイナンナのことを思いやって、無 茶はすまい。イ ナンナはそのために、忙しい中、会いに行く努力をしている。そのたびに、活力を取り戻している。
しかし、問題はネアンを取り巻く運気だ。それがストレスを生んでいる。激嵩すれば自分だけで勝手に破壊に持って行くかもしれない。天 仙側としてはそれだけは避けたいところだろう。
まだ存続させねばならないという天尊殿の所信表明演説も最近聞かされたばかりだからな。だから、フォーメーションもフェータルな形ではないと言える」
「近くに居るシノと会う可能性もあるぞ」
「そうなれば、ソフトランディングに支障しかねない。いまは、イナンナとの仲を見畏んで大人しくしているが、仕事の面で共に居る時間が増えると、火の鳥をストレートに破壊に用いてしまう可能性が出てくる」
「某国の同時多発テロも、シノが関わり、火の鳥が破壊方向に作用したものだからな。
これからも二人居るときに、何かのキーが揃えば、もっとたいへんな事態を引き起こすかもしれない」
「すると、天尊殿は困るであろうな」
「まだ終わらせたくなくとも、勝手に終わるとなればなあ」
「いや、何らかの有効な呪術的対処を取るであろう」
「やはり、ネアンにも良い目をさせてやるべきだと思うぞ。せめて公平にな」

鶴亀の真義

こちらは天尊の宮殿である。
慌てるようにして太公望が入ってきた。
玉座の天尊に向かって恭しく礼をすると、まくしたてるように話し始めた。
「鶴は千年、亀は万年という言葉をご存知でしょうか」
天尊は、軽く頷いた。
「ついにプレートの解読から分かったのです。
これは鶴と亀それぞれの寿命をいうのではありません。
鶴の印章を持つものは、千年ごとに現れるという意味です。
亀の印章を持つものは万年ごとに現れるというわけです。
それがたまたま巡り合うのは、鶴が十度目に現れるとき。
そのとき亀と必然的に巡り合うべく定められているというわけです」
「それはおかしい。ムーとアトラントの間はXX年。アトラントとスメールの間はYY年。杓子定規に一万年という単位が適用できるわけがない」
「それがです。ここでいう年の単位が、どうやらオオクロヌシの作った原型世界における惑星の時間で刻まれているようなのです。その頃の原型を生み出した惑星は、今にいう仙界、神界、霊界、幽界、現界を包含しておりましたから、惑星はおのずと複数の太陽の生み出す波動の中で公転し自転もしており、そ の頃には一律の時間進捗と観測されていたものも、太 陽が分かれてしまった現界次元ではかなり不規則なものとなるのです。
つまり、今にいう神話空間における時間の刻みが、現界における時間と食い違うようなものです。
しかし、神話から現象へと移行するときに波動方程式で計算できるように、同じ方法で変換計算して出すことができます。その結果、ここにいう千年と万年の周期が、ちょうど現界次元におけるそれらの事件のあった時点と合致することがわかったのです」
「ということは、なにか。今回を含め、火の鳥の発生する局面は、初めから定まっていたということか」
「そういうことになります」
「ばかな! それではクロノスの掌で、我 々はもてあそばれているようなものではないか。なにゆえ五界に分かれたのか。我々は管理しやすさの点から、分けていったはずではなかったのか。クロノスはそれらの歴史の成行すらも見越していたというのか」
「・・・・」
「もしそうならば、おおかたまた梵天の入れ知恵であろう。優位をかさにきおってからに」
「いや、お待ちください。そうではなく、たとえ我々が五界に分けなかったとしても、火の鳥は原型世界における一万年ごとに現れたのかもしれません」
「なに?」
「言うなれば、原型世界は、依然として私どもの世界の底に存在しているものです。つまり、私どもの作った世界、つまりソフトは、その上に浮かぶ島のようなもの。我々の世界はいかにあわただしく推移していても、底には悠久の大河がある如しです」
天尊はその言葉に、怒りを通り越して、ふと何かを思い出したかのように、虚空を見上げた。
「憶えておる。わ しがまだ若い頃だ。あ の頃の一万年とは、ま さに悠久だった。何 度か、世界のすべてを更新する事態があった。そのときに、見知らぬ光に世界が包まれるのを見たような気がする。そしてすべてが、野焼き後の大地に帰したのではなかったか。
そこからかつてあった植物が生え、あ らゆる生き物が息を吹き返したようなことがあった。それが火の鳥だったのかも知れぬな」
太公望が見ると、天尊の目は涙に潤んでいるようであった。その当時の雄大な自然を思い出したのであろうか。
「親方様」
「はは。いろんなことがありすぎて、忘れてしもうたわ」
太公望も思うことあろうか、床の一点をしばし見つめていたが、思い直したように天尊に向き直る。
「いま私情は禁物です」
「安心せい。もう子供ではない」
そこでふと、今度は太公望がなにやら思い出したようだった。
「親方様。確か、あの戦いで勝利し、五界に分離させてしまう直前にも火の鳥は現れましたぞ」
「うーむ。火の鳥はわれらの時代の開始を支持したと申すか」
「と、なりますか。それにもしかすると、国常立を倒したときにも現れているのではないでしょうか・・直ちに調べます」
太公望は、仙界のノートパソコンともいえる球体装置を湧き出させ、掌で操る。するとそこには当時の歴史が立体映像化した。
「現れております。このときも我々を支持していたことになりましょうか」
天尊は久々に笑みを浮かべる。が、太公望には、うすうすわかっている。
火の鳥は事の善悪を問わず、大 きな時代の節目に現れているのではないかということを。
だが、今 の天尊が、た だ何かに飢えた子供のような存在に思えて、気 の毒に思えてくる。
「では今度はどうしたことだ。わしを見捨てようというのか」
「いえ、一概にそのようなことは・・」
「それが不可避なら、いったいいつになる」
「調べます」
太公望は、対応する原型世界の時間を波動方程式に当てはめる。
ところが、対応すべき時間に乱れが生じていて、正確なデーターが出てこない。カタカタ手間をかけている太公望。
「何をしておる」
「原型の時間が不安定なのです。今その原因を・・」
太公望は、原型世界に何が起きていたかを表示させた。するとそれは、ちょうどクロノス更迭の時期にさしかかる頃であった。
実験炉に新しい要素を投入しようという動きが活発となり、新 たなソフトの種を宿した人類が続々と投入され、旧勢力との間に軋轢が生じ、原型世界に暗雲が垂れこめていた頃である。空間が歪んでいたために、時間軸も歪んで不安定に揺らいでいたのだ。
「大雑把なデーターしか扱えないこの方程式では、計測できません。より詳細な方程式は、おそらく・・」
太公望は、クロノスが最後まで口外しなかったが、いまだプレートの中に埋もれていると思ったのである。
「おそらく・・何と思った」
「・・・・」
側近の考えが読めない天尊ではない。
「なんということだ。縁起の悪い。ええい、とにかく火の鳥の発進を妨害せよ。何がなんでもだ。火の鳥が我々のほうにつくにしても、今は我々の計画にとって目障り。発進を阻止せよ」
「ははっ」
太公望は、その日の激務を終えた後、就寝前に天尊の治世を支えた火の鳥出現の時期を
もういちど点検してみた。
「クロノスの時代を更新させる導引となった鶴と亀とは、鳳と龍。宇宙を翔ける神霊であったか。では、国常立の時代を更新させたのは・・」
太公望は、表示結果を見て目を丸くした。
「鳳と龍は出ておらん。他に異象といえばグランドクロスか。それなら今回も出ておった。鳳龍もあるとすれば、重大局面であることはいっそう間違いない。
それにこれは?なにい!? 国常立の娘が亀で、そ の囚われの身を助けた賊が鶴だったと!?
まさか、国常立の実子がおのが親の治世を終わらせる役目を持つとは。より過去の遺恨か、悪しき因縁か?」
さらに深みを調べていく。
「恨みの線どころか・・これほど思い合い深き仲であったとは・・・
そうか。火の鳥がそうであるように、やはり鶴と亀も、ただ世界を次のステップに存続させていく力として存在したということか。
これがクロノスの考えた仕組みか。クロノスとはなんたる逸材。惜しいことをしたものよ」
私情ばかり先立つ天尊の命により、世界の汚濁を引率する太公望にも、胸詰まるものがあった。
彼のもとに次々とエルモナイトプレートの解読結果がもたらされるも、彼 の推測を裏付けるものばかりであった。
「だが、なぜこのようなサイクルを設ける必要がある?
クロノスの治世も、エ ントロピー蓄積と流砂瓦解の脅威にさらされていたということか。
いかに純粋英知を汲み取ろうとしたクロノスにおいてもか。それとも・・」

それより以前、イナンナはネアンに対して次のような霊感詩を送り、疑問を投げかけていた。これと同じことが、天尊の疑問となっていた。
「あの臨死のときに分かったんです。
そもそも、一つの疑問からすべての旅が始まったことを。
創っても創っても壊れてゆく宇宙。
気づかれぬように創っても・・・気づかれると壊される。
あれは何だったのだろう?
腐った卵のように・・・エントロピーの増大?
情報の海に飲みこまれる、統一という名の無?
男神様と、女神様の嘆き。
そしてそれに抗う為に、旅をしている人たち、戦っている人たち。
『夜明けの旅人』
それは、私が生まれた時から受けてきたはずの、宗 教概念と真っ向から対立するといってもいい概念。
救世主という、統一者とは反対の・・・悪さえも宇宙が続いてゆく為には必要だと、わざと調和を乱す為に、調和は無に向かう道だと・・・人だけがゆらぎを創れるのだと。
ゆらぎだけが、宇宙を存続させると。
なんで、こんなメッセージを受け取ったのか?
 (のちに創造神の独白があるチャネラーにもたらされているのをネアンは知ることになる。それがイナンナの受け取ったメッセージと等しいものであるとわかった。だがその独白を読んで、ネアンはこの創造神の暗愚と、良からぬ何者かの入れ知恵のあったことを見て取った。この入れ知恵した者こそ、邪神邪仙であろう)
でも、確かに受け取ってしまった。
正しいのかさえもわからない。
混乱して、だから耐えかねてあなたにぶつけてしまった。
悲しいです。
せめて、あなたとの出会いだけは、一つの導きだったと信じていたいけど、それも私が創ってしまった宇宙の出来事だとしたら、いったい自分の何を信じればいいの?
わかりません。
ごめんね。こんな言い方をしたら、きっと困られるのはわかっているけど、元はいちおう普通の人間なのですよ。ただの弱い。しかも男ではありません。
男に生まれたかったな。そしたら、もう少し強くあれたかな?
自分に克つしか道はないと、わかっているのです。
自分で立つしかないことも、本当はわかっています。
しばらく整理するのに時間を下さい。
夢の中だけは、自由でした。
何物にも束縛されずに、泣いたり、笑ったりすることが、ただそれだけのことが・・・
他の人には当たり前にできることが・・・なんとなく、自由でない事は本能的にわかっていたから。
夢の中だけは自由だったから、だから夢に道を求めたのです。
今夜は十六夜ですね。見えるといいんですけど」
宇宙の揺らぎ、それが宇宙を存続させる鍵であることをイナンナは強調した。それを人間だけが達成できるから、ど んなに人類が苦境に沈もうとも善悪の交代劇は必要なのだと言いたかったイナンナ。
何が真に本当なのか。
さらにその鍵を握るのが、こ の宇宙の開始からしつらえられていた興亡の鶴亀と火の鳥のシステムであることも、おぼろげながら感じ取れることであった。